近代世界システムに構造的危機をもたらす3つの趨勢

 均衡は、そこからの逸脱の諸過程に対する反作用的運動が、システムの基底をなす諸変数に一定の変化を強いるため、決してもとと同じところにまでは回復されない。したがって、均衡とはつねに動的な均衡でしかありえず、そのため、システムには長期的趨勢が生じる。システムの「通常」の作用を定義しているのは、このようなサイクルのリズムと長期的趨勢との組み合わせにほかならない。しかしながら、その長期的趨勢も永遠に持続可能なものではない。なんらかの漸近線に突き当たるからだ。ひとたびその漸近線に突き当たってしまえば、システムが、サイクルにしたがって、均衡に回復することも不可能になる。こうしてシステムは困難な時期に入る。システムは、末期的危機を迎え、分岐に向かう。すなわち、システムは、新しい均衡、新しいサイクルのリズム、新しい長期的趨勢をそなえた新しいシステムの構造へ向かういくつかの選択肢に直面するのである。
しかし、たとえば二つの選択肢のうちシステムがいずれをとることになるのか、すなわち新しいシステムはどのようなものが打ちたてられるのか、ということについては、それを前もって決定することは、本質的に不可能である。なぜなら、それは、システムによって制約されていない無限の個別の選択の関数だからである。これが、いままさに資本主義的世界=経済に起こっていることである。
 このことを理解するには、三つの主要な長期的趨勢に目を向けなければならない。それらはいずれも、いままさに漸近線に近づいており、それによって資本蓄積に限界をもたらしつつある。無限の資本蓄積が、史的システムとしての資本主義の規定的特徴である以上、それら三つの長期的趨勢がもたらす三重の圧力は、システムの原動力を機能不全に陥れ、したがって、システムの構造的危機をもたらしつつある。

第一の長期的趨勢は、世界=経済全体の平均で算出された実質賃金──この「実質」の意味は「生産のコストに占める賃金の割合で見た」ということである──の水準である。この実質賃金が低ければ低いほど利潤の水準は高くなり、逆もまた真であることは、明らかである。では、実質賃金の水準を決めるものは何なのか。答えはまったく明らかである。それは、世界=経済の所与の地域および所与の部門における労働力とその労働力の雇用者との間の力関係にほかならない。この力関係は、主として、いわゆる階級闘争における二つの集団それぞれの政治的な力の関数として決定される。決定における制約要因としての市場について語るのは欺瞞である。なぜならば、労働の市場価値は、世界=経済のさまざまな地域における多元的な力関係の関数にはかならないからである。さらに、これらさまざまの政治的な力は、なんらかの形態による所与の労働力の政治的組織の実効性および雇用者にとって実質的に開けている生産の配置転換先の選択肢の関数である。これら二つの変数は常に変化している。

 ここで言いうることは、所与のいかなる地理的ないしは産業部門ごとの局地性のなかにあっても、時問の経過とともに、労働者の勢力はなんらかの形態の直接行動組織をつくりだし、その構成員が、雇用者と直接にであれ、関連の政治機構への間接的な影響力の行使によってであれ、より効果的な交渉ができるような行動をとるようになるということである。所与の局地性においては、そのようにして得られた労働力側の政治的な力は、資本家集団の政治的反撃によって挫折させられうることはたしかであるが、その一方で、近代世界システムの歴史を通じて、諸々の政治機構が長期的に「民主化」されてきており、それによって、労働者階級の政治的な力の変化を表す曲線は、世界システムのほとんどすべての国々で、「長期持続」的に上向きであることも確かなのである。
 このような政治的圧力に世界の資本家が制約を加えることを可能にする手段となった主たるメカニズムは、所与のある部門の生産を、世界=経済のなかで相対的に平均賃金の低い他の地域へと配置転換することであった。これは、政治的に困難な操作であると同時に、〔各地域の労働者の〕熟練度を、その最終的な利潤の計算に組み入れなければならなかった。したがって、そういったことは、主としてコンドラチェフのB局面に起こる傾向があるのは先にも示唆したとおりであるが、それにもかかわらず、近代世界システムが歴史的に展開するあいだに、繰り返し起こってきたことでもある。だがそもそも、それらの諸産業部門の移転先となった地域は、なぜ低賃金地域として存在していたのだろうか。それは「歴史的」な賃金水準の帰結であると答えてみても、なんの解決にもならない。その「歴史」の由来はいったいどこからきているのだろうか。
 真の低賃金労働の第一の源は、つねに農村地域から新しく徴募されてきた移民(彼らは賃金労働市場にはじめて入る場合が多い)であった。そのような人々は、二つの理由から、世界的な規準では低賃金にあたるものを進んで受けようとする。ひとつは、彼らが手にする実質所得が、実際上、彼らがそれまで農村活動において手にしていた所得よりも高くなるからであり、もうひとつは、彼らが社会的な基盤から引き離されており、その結果として政治的にもあまりまとまりがなく、したがってあまり効果的にみずからの利益を守ることができないからである。いずれの理由も、時の経過とともに(まあ三〇年ほどもたてば確実に)磨り減っていき、〔かつて農村から移民として流入してきた新規の低賃金〕労働者は、世界=経済の他の地域における労働者たちと同等の水準の賃金を求めて圧力を行使し始める。こうなると、資本家側の主な選択肢は、またふたたび立地を移転させることということになる。
 おわかりいただけると思うが、このような様式での階級闘争のたたかい方は、世界システムに産業の立地を移転させる新しい地域がつねに存在するということに立脚しており、それは、賃金労働市場にまだ参加していない農村地帯が相当程度存在していることに依存している。しかし、この〔市場に組み込まれていない農村地帯の存在という〕条件は、〔近代世界システムのなかで〕まさに長期的趨勢として失われつつあるものにほかならない。世界の脱農村化は、急上昇のカーブを描いている。それは、過去500年にわたって持続的に進んできたものであるが1945年以降、きわめて劇的に加速した。これから25年も経てば、農村地帯がほぼ消滅してしまということを予見することは、決して無理な話ではない。そしてひとたび世界システム全体が脱農村化してしまったら、資本家に残された選択肢は、彼らがまさにいま立地しているその場所で階級闘争を遂行するということ以外にはない。
そしてその場合、分が悪いのは資本家の方である。世界システム全体だけではなく、最も富裕な諸国においても、実質所得水準の二極分解が進んでいるだけに、下層階級の政治および市場の場における〔戦術の〕洗練は、今後ますます進むだろう。統計上は失業していることになっている(が、実際には、インフォーマル経済から所得を引き出している)人々が多数存在するような地域においてさえ、世界システムのあちこちにある移民労働者の集住地域やスラム街の労働者に手が届く実質的選択肢として、彼らは、フォーマルな賃金経済に入るのに十分な賃金水準を要求する立場にあるのである。こういったことすべての最終的な帰結は、利潤率への深刻な圧迫であり、それは時間の経過とともにますます強くなる。
 資本家を悩ませる第二の長期的趨勢は、まったく別のものである。それは〔生産に投入される〕賃金労働の費用にではなく、物財の費用のほうに関係している。投入物の費用に含まれるものはなにか。そこには、企業がその投入物を別の企業がら購入する際の購入価格だけではなく、その投入物を処理する費用も含まれる。ところが、購入費用については、最終的にそこから利益を得る企業が負担するのが普通であるに対して、処理費用は、その企業のみによっては負担されないことがしばしばである。たとえば、原材料の処理が結果として、有毒ないしは処理になんらかの手間のかかる廃棄物を生じた場合、その処理費用には、そのような廃棄物の処分〔の費用〕も──有害廃棄物の場合ならば安全な方法で──含まれるということである。企業は、もちろん、そのような廃棄物処理の費用を最小化したいと考える。そうする方法のひとつは、そのような廃棄物に、最小限の有害物質除去処理を施した後(たとえば、有害化学物質を河川に流すといったような「処理」のことだが)、工場のある場所から遠く離れたどこかに運び去ることである。実際、こういうことは広範に行われており、経済学者はこれを「費用の外部化」と呼んでいる。いうまでもなく、処理費用は、これで尽きるわけではない。右の例に続けて言うなら、有害物質が河川に流されると、河川は汚染され、最終的に(何十年かあとかもしれないが)、人々ないしは、他の諸物 1に害を及ぼすことになる。その〔環境汚染によってもたらされる〕費用は、たとえいくらかかるのかを計算するのが困難であるとしても、たしかに費用としてかかるものである。すると有害物質を除去してしまおうという社会的な決定がなされる場合も出てこよう。その場合、それにかかる費用は、そのような有害物質除去を行う主体-それはしばしば国家であるが-が負担することになる。〔企業による〕費用削減には、ほかにもやりかたがある。それは、特に有機物について当てはまる問題であるが、原材料を使用するだけで、それを再生する負担を提供しない(つまりそれにかかる費用を支払わない)というやり方である。
このようなさまざまの費用の外部化は、所与の生産者にとっては、原材料の費用を削減することになり、したがって利潤のはばを拡げることになる。
 ここで問題となることも、賃金費用に対する解決としての配置転換の問題と同様である。費用の外部化は、そこへ廃棄物を運び去ることが出来るような、未活用地域が存在しているうちはやっていけるが、最終的には、汚染されうる河川がもうこれ以上なくなり、伐採しうる樹木がもう一本もなくなる-少なくとも、健全な生命圏になんらかの深刻な直接的帰結をともなわずにはもう無理だというような意味で-ということにたちいたってしまう。そしてそれが、五百年におよぶこのような実践の果てに今日われわれがたちいたった状況にほかならない。それゆえにこそ今日、世界中でエコロジー運動が急速に拡大しているのである。
 では何がなされうるのか。可能性として言ってみるなら、世界の諸政府が協力して、巨大な環境浄化キャンペーン・巨大な有機物再生牛ヤンペーンにとりかかるというようなことを挙げることはできる。だが問題は、実効性のある処理にいったいいくらかかるのかということである。その費用は莫大であり、なんらかのかたちの課税によってまかなわれざるをえない。課税の源泉は二つしかない。すなわち廃棄物を出してきたと考えられる諸企業か、それ以外のわれわれ全員か、である。
前者を採れば、利潤を圧縮する圧力が劇的に高まるだろう。後者を採れば、納税の負担は相当な額にのぼることになろう。実際、われわれはこの問題に直面しつつある。さらに言えば、〔企業の生産〕活動自体が現状のままであれば、環境浄化や有機物再生にはあまり意味が無い。それはあたかもギリシア神話に出てくるアウゲイアースの厩屋のように、一度も掃除されたことがないものを一日で掃除するようなものだからである。結局、論理的に考えていくと、〔生産にかかわる〕すべての費用を全面的に内部化することが必要だということになる。しかしながら、これは、個々の企業の利益にますます圧力をかけることになる。私には、資本主義的な世界=経済の枠組みのなかで、この社会的ディレンマに納得のいく解決が出せるようには思われない。したがって私は、〔生産に〕役人される物財の費用の上昇が、資本蓄積に対する第二の構造的圧力となると主張するのである。
 第三の圧力は、税の領域に存している。税とは、社会的サーヴィスに対する対価であり、したがって、税率が過度に高いものでない限りは、生産の合理的な費用として受け入れられている。では、その課税の水準はなにによって決定されるのか。たしかに、セキュリティ (軍事・警察)には一定の需要がある。この需要は、セキュリティ確保の手段にかかる相対的な費用の増大、軍事行動の範囲の拡大、必要とされる警察活動の増大のために、何世紀もあいだにわたって着実に上昇してきた。
もうひとつ着実に増大しているのは、世界における文民官僚機構の規模である。それは、なによりもまず徴税の必要の関数であり、ついで近代国家の諸機能の拡大に応ずる必要の関数である。
 近代国家の諸機能の拡大のうちで主要なものは、一定程度の大衆的要求に応える給付である。これは、場合によってはなしで済ませられるといったたぐいの支出ではない。そういった大衆的要求に応える給付の拡大は、実質賃金の二極分解の拡大──これは近代世界システムの持続的特徴であるーについての下層階級の不満の増大への対応として、相対的な政治的安定を確保するための主要な手段となってきた。政府による社会福祉の努力は、「危険な階級」を馴致する──つまり、階級闘争を手におえる範囲にとどめておく-ために利用される利益の分配であった。
 われわれは、こういった大衆的要求に対する対応を「民主化」と呼んでいる。そして、それらまた長期的趨勢として、たしかに存在するものであった。このような大衆的要求には、主として三つの種類がある。すなわち教育機関、保険機関、個人の生涯的な所得の保障(特に失業保険と年金社会保障)の三つである。これらの要求について注目すべきことはふたつある。ひとつは、近代世界システムにおいて、そのような要求がおこなわれる地域は次第に拡大して今日ではほとんど普遍的になっているということ、もうひとつは、それぞれの国において、要求の水準が着実に上昇してきており、その上昇の限度に見通しがまったくないということである。

 このことは、ほとんどすべての国で、課税率の着実な上昇(減少があったとしてもせいぜい臨時にわずかな程度にすぎない)を意味してきた。意味してきたはずである。しかしもちろん、あるところまで行けば、そのような再分配的な税制は、資本蓄積の可能性に深刻な影響を与える水準に達してしまう。かくして今日、ひとびとの認識にのぼっている「国家の財政危機」への対応として、資本家は歳出の削減を要求しており、〔政府は〕個人への課税も急速に強化することに拠って立って福祉の提供を追求しようとしている。皮肉なのは、課税の制限には大衆的支持が得られやすいのに対して、福祉給付(教育、保健、所得保障)の削減には大衆的支持はゼロだということである。実際、高い税金に対する不満が広がっているのとまったく同じところで、行政サーヴィスに対する大衆的要求の水準は上昇している。つまりここにおいてもやはり、資本蓄積に対する構造的圧力があるということである。

ウォーラーステイン著『脱商品化の時代』P81

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