明治政府に発見された真の敵としてのブルジョア民主主義勢力

 西南の役後、「国の疲弊は、勝利の喜色に蔽れて露れず、人民の怨言は凱歌の歓声に妨げられて聞え」ず、専制抑圧旧に加わる悲境のうちに、立志社は再出発を行った。身体財産は自ら治め自ら衛るべし、国力の基たる国財の増殖には、国民自ら奮起して生産通商の道を開くべしとのブルジョア的要求をはっきりつかんだ愛国社再興趣意書を掲げて、全国に向って遊説員を派遣したのは、十一(一八七八)年四月であり、ついに十三年四月、二府二二県八万七〇〇〇名の請願人総代九七名の名を以って、国会期成同盟の「国会を開設するの允許を上願するの書」を提出、ついに翌十四年の政変を惹き起すまでに昂揚した自由民権運動は、明らかに前代のそれとは異質のものであった。西南の役から十三年に至る、インフレーションが米価の騰貴をもたらし、地主層のみならず、中農層の上向を促した。かくてこの中農層の擡頭を中核に、地主・貧農層を含めて全農民層の協同戦線が、地租軽減のスローガンの下に結成され、これに、より小ブルジョア化した士族・退職官吏・教員、また都市商工業者、すなわち全人民層の参政要求の運動がもりあがったのである。ここに始めて絶対主義政権は、己れの真の敵を発見した。それは日本的な歪みを少なからずもったとはいえ、またいくばくもなく分裂解体を余儀なくされる弱味を内部に包含していたとはいえ、ブルジョア民主主義勢力であった。この後の絶対主義は、すでに形成途上のものではなく、この敵対勢力に対抗し、これを圧伏しつつ、己れを保持してゆく過程である。明治二十二(一八八九)年の大日本帝国憲法発布は、立憲制によって絶対主義を粉飾したものにはかならないが、法の防壁によって己れを守らなければならなかったのは、近代的革命勢力の攻勢の洗礼を受けたからであった。
(遠山茂樹著『明治維新』p310)

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