柄谷行人著『憲法の無意識』(岩波書店)


理念が、表層的なもの、実用性のない単なる綺麗事、などとして片づけられるものではなく、政治経済等の社会構成に影響を受けつつ、無意識から不可避的に生み出されてくるものであることを、日本の憲法9条を題材に分析している。

例えば、著者は、フロイトを引用してこう記している。
人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。(「マゾヒズムの経済論的問題」『フロイト全集18』岩波書店)
フロイトのこの見方は、憲法九条が外部の力、すなわち占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明するものです。先ず、外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生み出し、さらにそれが戦争の断念をいっそう求めることになったのです。
憲法九条は自発的ないしによってできたのではない。外部からの押し付けによるものです。しかしだからこそ、それはその後に、深く定着した。それは、もし人々の「意識」あるいは「自由意志」によるものであれば成立しなかったし、たと成立したとしてもとうに廃棄されていたでしょう。フロイトのような見方をしないならば、こんなことが成立したのは、先に紹介した江藤淳のように、よほど巧妙な「国民心理の操作誘導」があったからだろう、というほかないのです。しかし、「無意識」は「心理操作誘導」によってつくられたり除去されたりするものではありません。
なお、このようにも書いている。
要するに私がいいたいのは、憲法九条が無意識の超自我であるということは、心理的な憶測ではなく、統計学的に裏付けられるということです。最後に、世論と選挙の関係んちういて一言述べておきます。結論から言うと、総選挙は「集団的無意識」としての「世論」をあらわすものにはなりません。なぜなら、争点があいまいな上、投票率も概して低く、投票者の地域や年齢などに割合にも偏りがあるためです。ただ、総選挙を通して、憲法九条を改正しようとする場合、最後に国民投票を行う必要があります。国民投票も、なんらかの操作・策動が可能だから、世論を十分反映するものとは言えません。しかし、争点がはっきりしているうえ、投票率も高いので、「無意識」が全面的に出てきます。
憲法九条の改憲が、非常に難しいものである、ということは、改憲をすすめたい政治家にも深く理解されている。
そのために、計画的かつ慎重に、手続きが進められているのだと思う。
今度の総選挙でマニフェストとして出される、とうわさされている、9条への自衛隊の存在を明記する、という加憲は、当初の自民党が提出していた憲法草案と比べれば、非常にトーンダウンさせたものであるし、目下、トランプ大統領を手を組んで、北朝鮮との間に緊迫した状況を作った上で、選挙を行う、という手続きにもそれが表れている。
著者が言う通り、このような操作・策動によっても、無意識に深く定着しているという倫理性が、除去されることなく全面的に出てくることになるのか。
いよいよ、これから 現実にこのプロセスに直面することになる。

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