木曽川が東から西への流れを南に変え、それまで並行してきた木曽川と中山道とが分岐する場所に笠松湊はある。
水運によって物資が輸送されていた時代、木曽川を輸送されてきた品々をこれより西に輸送するためには、この川湊を経由して陸路の中山道が使われたはずである。
天領として直轄支配していたことからも、江戸幕府がこの地を重要視してことを伺い知ることができる。
また、笠松湊のほぼ真北に岐阜城がある。
岐阜城下町も、「木曽川と京都につながる道(中山道)とが分岐する場所」として発展した町ではないだろうか。
寛文2年(1662年)美濃国奉行(美濃郡代)名取半左衛門長知が郡代陣屋を移し、傘町から笠松に改称してから約200年にわたり、笠松陣屋を中心に、徳川幕府直轄地支配や治水行政の中心地、地方物資の集散地となった。 木曽川水運の拠点としても発展し、下流の桑名、四日市、名古屋からは海産物や塩、衣類などが運ばれ、上流からは年貢米や材木、薪炭などが運ばれた。 かつては問屋や倉庫、船宿、料亭などが立ち並び木曽川随一の繁栄を誇っていた。
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