邪馬台国の再考

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復元された吉野ケ里遺跡
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復元された吉野ケ里遺跡

「魏志倭人伝」に記述されている邪馬台国の位置をめぐる論争は、畿内説と九州説の二つの学説があり、いまだ決着がついていないといわれている。

ただし、その論争は、倭=日本という固定観念を前提として、弥生時代の日本について記述された「倭人伝」にある邪馬台国が、畿内か九州か、どちらにあったのか、という枠組みの中で行われている。

しかし、その枠組みを正しいといえるのだろうか。
国や国境そして、言葉とそれが意味するものは、時代により変化する。

日本において、「魏志倭人伝」と呼ばれる記述は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称であり、「魏書」という歴史書のうち、東の未開の国を記した章の一部に過ぎない。
そのため、そこに記述されている「倭国」や「倭人」が、現在の単一民族される日本のことについて記述しているわけではない。
魏書が書かれた時代に、そのような国家感はなかった。

それゆえ、倭=日本という先入観を外して、もう一度、別の枠組みの中で再考する必要があるのではないか。

朝鮮半島南部から日本列島にかけて存在した「倭国」

「日本史」の一部としての「倭人伝」から離れ、「魏書」烏丸鮮卑東夷伝のその他の部分に書かれている内容に目を向けると、「韓」に関する部分で、次のような記述がある。

韓は帯方郡の南にあり、東方と西方は海によって区切られ、南方で倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある。

「魏書」烏丸鮮卑東夷伝韓条

「韓」は、東西は海に面しているが、南は海ではなく、「倭」と接する、というのである。
また、倭人条には次の様な箇所もある。

(帯方)郡より倭に至るは、海岸に循(したが)ひて水行し、韓の国を歴(へて)、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、其(そ)の北岸の狗邪韓国に到り、七千余里。始めて一海を度ること、千余里にして対馬国へ至る

「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条

「其の(倭国の)北岸に狗邪韓国」があった。

つまり、邪馬台国が存在した時代には、朝鮮半島南部は「倭」であり、その北岸に狗邪韓国という倭人の国があった。

倭人伝だけを読んでいるとその北岸にあると書かれている狗邪韓国も、倭国に至るまでの経路にある国として解釈されてしまう。しかし、韓の条とともに、倭人の条を読むと、それが倭国に含まれる国であり、倭国が、朝鮮半島南部から日本列島にかけて存在したと理解できる。

つまり、魏書で、「倭国」は現在の日本ではなく、別の何かを指している。

長江下流域の「倭人」

古代の中国において、倭とは何を意味していたのか。
この点について書かれた論文がある。
張莉(二〇一三年七月)「「倭」「倭人」について」
(立命館大學白川靜記念東洋文字文化研究所第七號拔刷 )
である。
詳しくは、リンク先の論文を読んでいただきたいが、張氏はこの論文で、中国の古文書における「倭」という漢字に注目して、「倭人」を次のように推論する。

王充の『論衡』巻一九恢国篇に「成王之時、越常獻雉、倭人貢暢(成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢こうす)」と書かれている。中国の文献における「倭人」の最古の記録である。周の成王(前一一一五~前一〇七九)の頃といえば日本では縄文時代にあたるから、この話は信じるべきではないという意見が多い。ところが、古代の中国の歴史を辿たどっていくと、にわかに信憑性を帯びてくる。暢ちょうは鬯ちょうそう艸のことであり、「鬯」と同意の「巨」について、『説文解字』(以下『説文』という)五下に「一曰巨鬯、百艸之華、遠方巨人所貢芳艸、合醸之、以降神。
巨今巨林郡也(一に曰く、巨鬯は百艸の華、遠方巨人の貢する所の芳艸なり。之を合醸して、以て神を降す。巨は今の巨林郡なり)」とある。
巨林郡は今の広西省桂平県に当たり、「鬯」の産地が中国南方にあったことが知られ、『論衡』の鬯艸とつながる。『三國志』魏書倭人条の中には、鬯草の記録はない。周王朝に鬯草を献上した倭人のことは著者陳寿も必ず知っていたはずで、鬯草が日本産であるならば、一九八八文字の長文で書かれた倭人条内に特産物としてそのことが記されないはずがない。したがって、『論衡』の倭人とは、 中国南部に定住していた越族の中の倭人を指すと思われる。
安徽省北西部の亳県の元宝坑村一号墓から発見された磚せんに「有倭人以時盟否(倭人、時を以て盟すること有りや否や)」(一七〇年頃のものと推定される)とある。磚文の「盟」とは古代中国の近接する国々の間で神明にかけて交わされる不可侵や同盟の誓いを意味するのであり、そこからするとこの「倭人」が遠く離れた日本に住む倭人とは考えにくく、安徽省亳県に定住していた倭人と考えるのが妥当である。
この金石文は倭人が中国国内に定住していた動かぬ証拠である。
越人は単一の民族ではなく、百越と呼ばれていた。この越族の中に倭人が含まれていた。長江下流域に住んでいた倭人の一部が北上し、山東半島から朝鮮を経て、日本に渡ったのであろう。

張莉(二〇一三年七月)「「倭」「倭人」について」

上記の引用文で登場する三つの記録の年代を改めて整理しておくと次の通りである。

27年 – 1世紀末頃 論衡
170年頃     元宝坑村一号墓磚せん
280年- 297年頃  魏書

また、現代中国語では、「倭人」には蔑称的な表現としての日本人の他に、「ちび・うすのろ・劣った」という意味がある。

これらの多少時代の異なる記録に登場する「倭人」という単語の意味を、判定することはできない。
ただ、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用など、長江下流域の照葉樹林帯地域と日本文化と共通の要素が多いとする「照葉樹林文化論」とも一致しており、注目に値する。

九州北部の倭人

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復元された吉野ケ里遺跡の甕棺
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吉野ケ里遺跡の発掘跡

これまで書いてきた通り、古代中国において、「倭」とは今日本で理解されているように「日本」を指すわけではない。
魏書東夷伝では、「倭」として表現できるある同一性をもった民族が存在し、その民族が朝鮮半島南部から日本列島にかけて「倭国」と呼ばれる国を形成していたのである。

これは、吉野ヶ里遺跡などでの発掘やそれに伴うDNA分析とも一致する。
吉野ケ里遺跡から遠くない場所に位置する佐賀県の弥生時代の託田西分貝塚遺跡から発掘された人骨のDNA分析を行った太田博樹氏(ゲノム人類学)は次のように書いている。

甕棺墓には、大陸と関係が深いと考えられる装飾品が一緒に埋葬されていることが多いため、創造させられます。

太田博樹著『遺伝人類学入門』P256

甕棺に埋葬されていた人は少数の例外を除いてすべて最多配列グループに属することがわかります。一方で土壙墓に埋葬されていた人は、最多配列グループとは異なる配列を持っているほうが多く、特定の配列に集中することなく分散していることがわかります。この甕棺と土壙墓の間で観察された違いは統計的に有意でした。
(中略)
想像をたくましくすると、大陸からやってきた一族は甕棺に埋葬され、土着の人々は地面の土に直接埋葬されていた、そういう集落であったのかもしれません。

太田博樹著『遺伝人類学入門』P259

甕棺とは、上の写真の通り、全長2mほどの繭のような形状をした素焼きの土器に、亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める北九州特有の埋葬方法のことである。
一方、土壙墓は、土中に小規模な竪穴を掘り,遺骸を棺などを媒介とせず,布などで包んで直接埋める埋葬様式である。

そこで、太田氏が、記載している通り、以下の理由から、朝鮮半島と繋がりのある一族がその国の支配層を形成していたと考えられる。その支配層を形成した一族が、「倭人」であったのではないだろうか。

  1. 大型の素焼きの土器は、土壙墓と比較して、高い技術力と労働力が必要であり、より高い身分の人物に対する埋葬方法であると考えられる。
  2. 甕棺の埋葬様式とDNAの分類が一致する。
  3. 甕棺墓には、大陸と関係が深いと考えられる装飾品が一緒に埋葬されていることが多い。

変換される論点

以上の議論を踏まえると、これまでの邪馬台国論争の論点は、次の様に置き換えられる。

北九州を支配していた大陸との関係が深い一族が、畿内でも支配層を形成していたといえるのか。

現在、邪馬台国論争を決着させるためには、決定的な発掘が必要と考えられている。
しかし、置き換えられた論点に対する回答は、畿内での考古学の成果により十分検討できる。

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