Category Archives: geography

埋立地の最前線

若洲15号地付近

若洲
1965年11月 – 東京湾埋立15号地として埋立開始。
1974年5月 – 埋立終了。
1990年 – 若洲海浜公園が開園し、ゴルフ場やキャンプ場などの施設群が完成。

中央防波堤付近

埋立地の地図

石川雄一郎著『さまよえる埋立地』より

現在の埋立地

夢の島2100イメージスケッチ1

報道番組 ニュースゼロ<ゴミ問題 埋立廃棄物>

東京のゴミ埋立処分場が残り少なくてヤバイ件【夢の島の今昔】

埋立地の歴史と技術

東京都地質調査業協会「東京港の埋立、その歴史」

鹿島建設HP「どうやって埋立地を作るの?」

IT金融が散策する地形

取引価格のチャート。
山や谷のある散策路の断面図のよう。
金融のディーラーは、この山や谷がある散策路を歩いて収穫を得る。
下で買ったものを上で売ると、その差だけ利益を得られる、
というルールである。
金融のディールとは、デジタル空間上の坂を荷物を背負って上る仕事。

駅から徒歩10分圏内(中央線西側)

全国的に、人口減少により、不動産価値は減る傾向にあるが、人口が微増しているといわれている東京であっても、将来的には駅から徒歩10分以上の場所に位置する不動産物件は、その傾向は免れないといわれている。
そこで、人の歩行速度を80m/分として、新宿から西側の地域について、各駅から徒歩10分圏内を半径800m円で囲ってみたのがこの図である。

奈良・京都が都になった理由

 奈良が都になる4世紀頃、大坂平野の奥まで海と川が混じる湿地帯が広がっていた。まさに河内と呼ばれた地であった。
 船で瀬戸内海から大坂湾に入り、上町台地を回り込み、大和川を遡ると生駒山、金剛山の麓まで行くことができた。中国大陸から生駒山麓の柏原市まで直接舟で行けたのだ。柏原で小舟に乗り換え生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、もうすぐそこは奈良盆地であった。
 この奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていた。その湿地湖を利用すれば奈良盆地のどこにでも舟で簡単に行くことができた。
 奈良盆地全体が、大坂湾の荒波を避ける穏やかな自然の内港のようであった。
 舟を利用すれば奈良盆地は便利かよく、ユーラシア大陸との連絡も容易であった。

 奈良盆地が日本の都になったのは、地形から見て合理的であった。
 しかし、この奈良盆地を抱える大和川流域はいかにも小さい。図1では豆粒ほどだ。
 川の流域が小さいということは、資源が少ないということであった。
 川の流域が支配する資源は「水」と「森林」であり、水は生命の源で、森林はエネルギーの源である。大和川の流域の小さい奈良盆地は、この「水」と「森林」に限度があった。

変貌した奈良盆地

 生物の中で人間だけが燃料がなければ生きていけない。文明の誕生と発展にとって燃料すなわちエネルギーは絶対的なインフラであった。19世紀に石炭と出会うまで日本文明のエネルギーは木であった。
 エネルギーだけではない。日本の寺社、住居、橋、舟など、構造物はすべて木造であった。モンスーン地帯の日本は森林が豊かであり、木材は潤沢に手に入った。
エネルギーであり資源となった森林は日本文明存続の大前提であった。
 故・岸俊男氏(奈良県立橿原考古学研究所長)の推定では、平城京内外に10万から15万の人々が生活していたという。
 また、作家の石川英輔氏によれば燃料、建築などで使用する木材は、江戸時代一人当たり1年間で20~30本の立木に相当する量であったという。
 奈良時代でも一人当たり最低10本の立木は必要であったと推定すると、奈良盆地で年間100万から150万本の立木が必要となる。いくら日本の木々の生育が良いといっても限度がある。毎年毎年100万本以上の立木を伐採していたのではたまらない。その量は小さな大和川流域の森林再生能力をはるかに超えていた。
 森林伐採がその再生能力を超えれば、山は荒廃する。
 荒廃した山に囲まれた盆地は、極めて厄介で危険である。荒廃した山では保水能力が失われ、沢木や湧水が枯渇し、清潔な飲み水が消失していく。
 また、雨のたびに山の土砂が流出し、盆地中央の湿地湖は土砂で埋まり奈良盆地の水はけは悪化していく。
 水はけが悪くなれば、生活汚水は盆地内でよどみ不衛生な環境となり、さまざまな疫病が蔓延していく。また、水はけが悪ければ雨のたびに木が溢れ、住居や田畑が浸水してしまう。
 桓武天皇がこの奈良盆地を脱出し、大和川より何倍も大きく「水」と「森」が豊かな淀川流域の京都に遷都したのは当然であった。
(竹村公太郎著『日本史の謎は「地形」で解ける』p366)

近畿地方の河川流域図

大阪・京都・奈良の地形


大阪・京都・奈良
大阪・京都・奈良

三内丸山遺跡周辺の地形

三内丸山遺跡遺跡

吉野ヶ里遺跡周辺の地形

吉野ヶ里遺跡

主要都市の地形

東京
東京

名古屋
名古屋

大阪
大阪

福岡
福岡

地形と交通路

Print
中津川付近の地形と主要交通路の関係
1601年:中山道
1885年:国道19号
1908年:JR中央本線
1975年:中央自動車道
2027年:中央リニア新幹線

関空人工島の地質構造

B4CA34D6-81A7-41DB-90A9-62857FA30059

埋め立てによる海底地盤の圧密沈下(関西空港)

20140305-230522.jpg

加工された地形としてのコンクリート構造物

アルカリ骨材地図

中央構造線/糸魚川静岡構造線

中国と日本の岐路を別けた外圧

中国における南京条約一天津条約(一八五八年)・北京条約(一八六〇年)の系列と、日本における神奈川和親条約・江戸通商条約(一八五八年)・改税約書(一八六六年)に至る系列とに現われた欧米諸列強の外交意図の根本方向は同じであった。
彼が究極において求めたところは、開港であり、外交使節の交換であり、封建支配者の干渉なき自由貿易の確立であった。しかもそれは彼我平等の関係ではない。中国でも、日本でも、いずれも片務的な、領事裁判権(この結果外人は治外法権を獲得した)・協定関税率(税率は相手方の同意なくして改定できず、すなわち関税自主権をもたず、その結果きわめて低率に釘づけされた)・最恵国条款(双務的でなく、もっぱら外国側の利益の均霑のみを規定す)を強要された不平等条約であった。それは日本ならびに中国の国際的地位を、欧米資本主義の半植民地的市場として決定したものであった。
かかる外圧にたいする中国ならびに日本の支配者の対抗の姿勢も同質のものであった。彼らは共に自己の支配の必須条件として、鎖国政策を固持してゆくことを念願してはいたが、当面外国を撃攘するだけの武力をもたなかったために、便宜的手段として開国を受諾した。しかも一旦取り結んだ条約の実施を極力延期あるいは制限しようと努力し、その結果、外国との間に種々の外交紛争を頻出した。しかも幕府・清朝の支持煽動を陰に陽に受けて、攘夷運動が激発し、ために欧米列強との間に、幾度か武力衝突が起った。中国では第一次・第二次英仏連合戦役(一八五八・六〇年)、日本では薩英戦争(一八六三年)、四国連合艦隊下関攻撃事件(一八六四年)。かくて上述の並行的な外交推移の結末として、これまた時を同じくして中国の同治中興、日本の明治維新が出現した。それは共に封建支配者がこれまでの排外主義を緩和ないし転換して、外国勢力と妥協・結合することによって、政治改革を企てたものであった。このような表面的経過の類似にもかかわらず、中国と日本との間に国家統一の様相、近代的転化(資本主義化)の速度に、大きな相違を生じた。これは、まごうかたなき事実である。その差は、中国が経済的のみならず、政治的にも次第に欧米列強の半植民地化するコースに入り込んでいったのに反し、日本が一応政治的に独立を維持しえた違いに最も端的にあらわれていた。そしてまた同治中興と明治維新との、改革としでの深さの比較にならぬ相違をもたらしたのである。この大きな岐路の原因はどこに求むべきであろうか。
 イギリスの対日政策は、対中国政策と不可分の関係にあって遂行されていたにもかかわらず、事実は、中国にたいした場合に比較して、より緩和された性格のものとしてあらわれた。それは第一には、中国との紛争に極東のイギリス軍事力の大部分が注がれたため、日本に大規模の武力行使を敢てする余裕をもたなかったこと。第二にインドおよび中国での民衆の素朴ではあるが根強い民族運動の反抗を惹き起し(一八五一-六四年の中国の太平天国の乱、五七年のインド土民兵の反乱)、その結果は、彼らの本来の目的である市場開拓が阻害されるに至り、この体験が彼らの対日外交政策をきわめて慎重かつ消極的たらしめたこと。すなわち「既存の政府が代表し統制している力と秩序との諸要素があるのを尊重する」態度に出でしめたこと。
(遠山茂樹著『明治維新』p45)