関門海峡。
本州と九州を隔てる海峡である。
両岸の距離は大きな川幅位でしかなく、九州側の岸から、本州をはっきり眺めることができる。
船が海外との唯一の交通手段だった時代、この海峡の先に続く瀬戸内海は、大陸と奈良、京都を繋ぐ重要な水路であった。瀬戸内海は、太平洋や日本海などの外洋と異なり、島で囲まれているために、穏やかで、安全な船の航行に適している。
しかし、瀬戸内海をそのような交通路として機能させるためには、この狭い海峡を抜けなければならない。
この狭まった海峡では、人為的にその通行は妨げることができる。そのため、瀬戸内海を大陸へ続く道として利用するためには海峡の両岸の地域にいる人々の了解を得なければならず、この地域の人々と敵対関係であれば、この海峡を簡単に通り抜けることはできなくなる。
例えば、平家は、京都から瀬戸内海を渡って逃亡したが、この海峡を抜けられず、この海峡に面する壇ノ浦で滅亡した。
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関門海峡から考える古代日本の成立過程
邪馬台国の再考
「魏志倭人伝」に記述されている邪馬台国の位置をめぐる論争は、畿内説と九州説の二つの学説があり、いまだ決着がついていないといわれている。
ただし、その論争は、倭=日本という固定観念を前提として、弥生時代の日本について記述された「倭人伝」にある邪馬台国が、畿内か九州か、どちらにあったのか、という枠組みの中で行われている。
しかし、その枠組みを正しいといえるのだろうか。
国や国境そして、言葉とそれが意味するものは、時代により変化する。
日本において、「魏志倭人伝」と呼ばれる記述は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称であり、「魏書」という歴史書のうち、東の未開の国を記した章の一部に過ぎない。
そのため、そこに記述されている「倭国」や「倭人」が、現在の単一民族される日本のことについて記述しているわけではない。
魏書が書かれた時代に、そのような国家感はなかった。
それゆえ、倭=日本という先入観を外して、もう一度、別の枠組みの中で再考する必要があるのではないか。
Read more »新型コロナウィルスについて
今日は、買い物に出かけてきたが、多くの店が閉まっており、人通りも少ない。
新型コロナウィルスは、直接感染すること以外にも、経済や実際の日々の生活にも、大きな影響を及ぼし始めている。
世界がグローバルに繋がった結果、ウィルスもグローバルに拡がり、その対策として、一度繋げた交通を遮断せざるを得なくなった。
人や物が往来すれば、必然的にそれに乗って疫病も拡散する。
交通によって、世界が近くなったこととコロナウィルスの拡散は、グローバル化の表と裏あり、一つの事象として、分けられない。
これまで、AIDSやサーズなど、伝染病蔓延の予兆はあったものの、交通がここまで大幅に遮断されたのは初めてである。
新型コロナウィルスの致死率は数パーセント程度であるが、ペストは蔓延した地域全人口の1/3から1/2が死亡したという。
そのような疫病が今後発生し、全世界に広がったことを想像するとゾッとする。
3.11の大地震により、人間のコントロールできない自然の力について、東日本の人たちは経験させられたが、全世界に拡がった新型コロナウィルスは、それ以上のインパクトを与えはじめている。
未来都市構想のためのスケッチ(東京湾)
未来都市構想スケッチ。
将来の東京湾。
・維持コストがかかる鋼管矢板の護岸を最小限にする。
・ピラミッド状に立体化した埋め立てを行い、廃棄物の埋立容量を最大化する。
中央防波堤外側護岸断面
海上にゴミの墳丘をつくるには、周囲を支える護岸が必要となる。中防外の場合、それ以前に海底の軟弱地盤を引き締めるため、粘土をさらって置き換え砂を厚く敷く。さらに船上から鋼管をつないでは打ち込み、その中に砂を詰めて圧縮しながら鋼管を引き抜く。これを砂杭といい、護岸に設ける一体に数多く打ち海底の基礎を固める。
護岸のフェンスとなるのは円柱の鋼管、いわゆる鋼矢板の強力型だ。これを埋立法線(埋立区域の外周を示す測量線)に合わせて、すきまなく一列に打ち込んでゆく。深さは海底40メートルほど、上端部は干潮海面より9メートル出す。外周から20メートルの内側にも、鋼矢板を打ち並べたフェンスを張り巡らし二重の枠を設定。その間に中詰砂を隙間なく詰め、上端をコンクリートで覆う。中詰砂と置き換え砂を合わせ、中防外ではざっと240万トンを使用。ほとんどが千葉県から運ばれた山砂である。
中防外その二地区の場合、護岸1メートルを造るのに昭和49年の着工当時で約1千万円かかった、と清掃局臨海計画課の話。とすれば、この地区の護岸延長は5672メートルだから、約570憶円のゴミだめということになる。
さらに内側フェンスに沿って止水用の鋼矢板(断面がコの字型)をあてがう。枠内の残留海水及び投入ゴミの汚水が、外海に染み出るのを防ぐためである。
四周に護岸ができても、内部の残留海水は敢えて抜かない。抜いてしまうと外を取り巻く海の圧力により、護岸が変形する恐れがあるからだ。護岸内に海水を残したまま、ゴミを投棄するため、水は汚汁化する。その流出を防ぐのが、止水板であり、中にたまった汚水を集めて、排水処理場に送るため、集水パイプをぐるりと埋設しておく。これはいくつも穴の開いた有孔塩ビ管。途中に汚水枡を設けてポンプアップし、厨房内の調整池へ送る。この池で汚水をためておき、隣接する排水処理施設にかけて下水道に流す。
(石川雄一郎著『さまよえる埋立地』P114)
埋立地の最前線
若洲
1965年11月 – 東京湾埋立15号地として埋立開始。
1974年5月 – 埋立終了。
1990年 – 若洲海浜公園が開園し、ゴルフ場やキャンプ場などの施設群が完成。
IT金融が散策する地形
駅から徒歩10分圏内(中央線西側)
奈良・京都が都になった理由
奈良が都になる4世紀頃、大坂平野の奥まで海と川が混じる湿地帯が広がっていた。まさに河内と呼ばれた地であった。
船で瀬戸内海から大坂湾に入り、上町台地を回り込み、大和川を遡ると生駒山、金剛山の麓まで行くことができた。中国大陸から生駒山麓の柏原市まで直接舟で行けたのだ。柏原で小舟に乗り換え生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、もうすぐそこは奈良盆地であった。
この奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていた。その湿地湖を利用すれば奈良盆地のどこにでも舟で簡単に行くことができた。
奈良盆地全体が、大坂湾の荒波を避ける穏やかな自然の内港のようであった。
舟を利用すれば奈良盆地は便利がよく、ユーラシア大陸との連絡も容易であった。奈良盆地が日本の都になったのは、地形から見て合理的であった。
しかし、この奈良盆地を抱える大和川流域はいかにも小さい。図1では豆粒ほどだ。
川の流域が小さいということは、資源が少ないということであった。
川の流域が支配する資源は「水」と「森林」であり、水は生命の源で、森林はエネルギーの源である。大和川の流域の小さい奈良盆地は、この「水」と「森林」に限度があった。変貌した奈良盆地
生物の中で人間だけが燃料がなければ生きていけない。文明の誕生と発展にとって燃料すなわちエネルギーは絶対的なインフラであった。19世紀に石炭と出会うまで日本文明のエネルギーは木であった。
エネルギーだけではない。日本の寺社、住居、橋、舟など、構造物はすべて木造であった。モンスーン地帯の日本は森林が豊かであり、木材は潤沢に手に入った。
エネルギーであり資源となった森林は日本文明存続の大前提であった。
故・岸俊男氏(奈良県立橿原考古学研究所長)の推定では、平城京内外に10万から15万の人々が生活していたという。
また、作家の石川英輔氏によれば燃料、建築などで使用する木材は、江戸時代一人当たり1年間で20~30本の立木に相当する量であったという。
奈良時代でも一人当たり最低10本の立木は必要であったと推定すると、奈良盆地で年間100万から150万本の立木が必要となる。いくら日本の木々の生育が良いといっても限度がある。毎年毎年100万本以上の立木を伐採していたのではたまらない。その量は小さな大和川流域の森林再生能力をはるかに超えていた。
森林伐採がその再生能力を超えれば、山は荒廃する。
荒廃した山に囲まれた盆地は、極めて厄介で危険である。荒廃した山では保水能力が失われ、沢木や湧水が枯渇し、清潔な飲み水が消失していく。
また、雨のたびに山の土砂が流出し、盆地中央の湿地湖は土砂で埋まり奈良盆地の水はけは悪化していく。
水はけが悪くなれば、生活汚水は盆地内でよどみ不衛生な環境となり、さまざまな疫病が蔓延していく。また、水はけが悪ければ雨のたびに木が溢れ、住居や田畑が浸水してしまう。
桓武天皇がこの奈良盆地を脱出し、大和川より何倍も大きく「水」と「森」が豊かな淀川流域の京都に遷都したのは当然であった。
(竹村公太郎著『日本史の謎は「地形」で解ける』p366)