奈良が都になる4世紀頃、大坂平野の奥まで海と川が混じる湿地帯が広がっていた。まさに河内と呼ばれた地であった。
船で瀬戸内海から大坂湾に入り、上町台地を回り込み、大和川を遡ると生駒山、金剛山の麓まで行くことができた。中国大陸から生駒山麓の柏原市まで直接舟で行けたのだ。柏原で小舟に乗り換え生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、もうすぐそこは奈良盆地であった。
この奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていた。その湿地湖を利用すれば奈良盆地のどこにでも舟で簡単に行くことができた。
奈良盆地全体が、大坂湾の荒波を避ける穏やかな自然の内港のようであった。
舟を利用すれば奈良盆地は便利がよく、ユーラシア大陸との連絡も容易であった。奈良盆地が日本の都になったのは、地形から見て合理的であった。
しかし、この奈良盆地を抱える大和川流域はいかにも小さい。図1では豆粒ほどだ。
川の流域が小さいということは、資源が少ないということであった。
川の流域が支配する資源は「水」と「森林」であり、水は生命の源で、森林はエネルギーの源である。大和川の流域の小さい奈良盆地は、この「水」と「森林」に限度があった。変貌した奈良盆地
生物の中で人間だけが燃料がなければ生きていけない。文明の誕生と発展にとって燃料すなわちエネルギーは絶対的なインフラであった。19世紀に石炭と出会うまで日本文明のエネルギーは木であった。
エネルギーだけではない。日本の寺社、住居、橋、舟など、構造物はすべて木造であった。モンスーン地帯の日本は森林が豊かであり、木材は潤沢に手に入った。
エネルギーであり資源となった森林は日本文明存続の大前提であった。
故・岸俊男氏(奈良県立橿原考古学研究所長)の推定では、平城京内外に10万から15万の人々が生活していたという。
また、作家の石川英輔氏によれば燃料、建築などで使用する木材は、江戸時代一人当たり1年間で20~30本の立木に相当する量であったという。
奈良時代でも一人当たり最低10本の立木は必要であったと推定すると、奈良盆地で年間100万から150万本の立木が必要となる。いくら日本の木々の生育が良いといっても限度がある。毎年毎年100万本以上の立木を伐採していたのではたまらない。その量は小さな大和川流域の森林再生能力をはるかに超えていた。
森林伐採がその再生能力を超えれば、山は荒廃する。
荒廃した山に囲まれた盆地は、極めて厄介で危険である。荒廃した山では保水能力が失われ、沢木や湧水が枯渇し、清潔な飲み水が消失していく。
また、雨のたびに山の土砂が流出し、盆地中央の湿地湖は土砂で埋まり奈良盆地の水はけは悪化していく。
水はけが悪くなれば、生活汚水は盆地内でよどみ不衛生な環境となり、さまざまな疫病が蔓延していく。また、水はけが悪ければ雨のたびに木が溢れ、住居や田畑が浸水してしまう。
桓武天皇がこの奈良盆地を脱出し、大和川より何倍も大きく「水」と「森」が豊かな淀川流域の京都に遷都したのは当然であった。
(竹村公太郎著『日本史の謎は「地形」で解ける』p366)
0 Comments.