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地形と交通路

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中津川付近の地形と主要交通路の関係
1601年:中山道
1885年:国道19号
1908年:JR中央本線
1975年:中央自動車道
2027年:中央リニア新幹線

パソコン作業中の姿勢

「近くを見続けるパソコン作業は、ピントを合わせるのに重要な役割をする毛様体筋の緊張が続くため、ピント調整つ能力を低下させます。
それだけでなく、パソコン作業中は、まばたきの回数が極端に減ります。
まばたきには実は重要な意味があり、まばたきをすることで角膜が涙で潤い傷や障害から守られているのです。
そのため、まばたきを回数が減ると、ドライアイになりやすくなります。
ドライアイになって涙の分泌量が慢性的に減ると、感染症にかかりやすくなり、視力の低下もまねきます。
こういった状態を防ぐために重要なのはパソコン作業中の姿勢です。

まず大事なのが机と椅子の高さ。パソコンを打つとき、ひじが90度以上に保てる高さだと肩や肘、手首に負担がかかりません。
椅子はう座った時に、足首、ひざ、股関節が90度になる高さにし、深く腰掛けて背筋を伸ばしましょう。足がつかないなら台などを置いて調節してください。

また、パソコン画面はやや見下ろすような位置に来るように設定するのがベスト。見上げるのような高さに画面があると、目の開いている部分の面積が増え、涙が蒸発しやすくなって、ドライアイを招くためです。
目と画面の間は、40-50cmほど離すのがお勧めです。」
(本部千博著『自分で目をよくする本』p124)

人間の定義としての坐ること

 「人間」であるという定義にはいくつもある、その一つが人間以外の動物との比較でみる身体的、機能的な違いである。それは「人間が二本の足で直立しし歩くことが出来るようになったこと、そのために手で体を支える必要がなくなり、同時に両手を自由に使えることで道具を作り、火の作り方を覚え、火を使うようになった。それに脳の発達は、言葉を用い、それによってコミュニケーションを得て人間社会を作る]という見方である。
それだけだろうか。
 人間は「二本の足で歩くことが特徴である」と言われているが、それだけではないようである、「立つ」ことよりも「坐る」ことによって、足を休め、手をより自由に上手こ使えるようになったことも今日の文化を生み出した要因ではなかろうか。
「坐る」ことがなければ、今日の文明の発展はみられなかったといっても過言ではありますまい。人間が「坐る」ことを獲得したことは、「立つ」ことを獲得したことよりも更に大きな意味を持つのである。
 確かに二本の足で「立つ」ことで「歩く」ことが可能となり、人間の生活環境は、どんどん変わっていった。そして二本の足で「立つ」こと、「歩く」ことの代わりに乗り物、交通機関等、現代文明の発達に繋かってくる。これまで「立つ」ことが人間の特徴と言われてきたが、現代人は、文明の発達により、この「立つ」「歩く」ことの能力を失いつつある。これが二本の脚で「歩く」ことから「坐る」ことの方へ、大きく比重が移りつつあるからではないだろうか。
(森義明著『坐のはなし』)

群れの中での積極性

モノとコトの共立を、どのようにモデル化したらいいのか。まず私は、どうして、モノとコトが既存のモデルで二者択一なのかを考えてみた。
ボイドにおいて、最も基本的であり、自己推進粒子モデルの根幹だった規則は、速度平均化の規則だ。その意味するところは、各個体におけるモノとコトの完全な統合だったはずだ。自由を有し、原理的にパラパラな振る舞いをする個の集よりとして想定されるモノは、個性を押し殺し画一化されることでのみ1個の全 体=コトになる。このモデルの背景には、群れ形成には個性の封印しかあり得ないとする考え方がある。
こうしてモノが封印されたとき、モノとしての性格、個の自由を別な形で補完し表現するものが、ゆらぎであった。自己推進粒子モデルにおける平均化規則とゆらぎの結合は、統合によるモノとコトの両義性の欠如を補う新たな両義性補完機構だったはずだ。
しかし、ゆらぎの導入による新たな両義性の補完が度を超すと、今度は両義性が元論的に展開され、モノとコトとは二者択一となってしまう。モノとコトは、ゆらぎと速度平均化規則に対応づけるかぎり、相容れない、水と油のような関係になってしまうのである。
平均化規則として用意されるコトーこれ自体が、モノ(自ら)と周囲(コト)の統合の結果だった—–は、周囲に対する同調圧力であり、周囲への受動的規則である。一方では、周囲から独立した自由な振る舞い、能動的な振る舞いこそ、ゆらぎによって表されるものである。ここにあるのは、極端な受動、極端な能動といえるだろう。モノとことは、能動的、受動的なあり方を示すものであるが、極端な受動・能動の対は、反発しあうばかりで、両者を二者択一に陥らせる。
したがって受動、能動の両義性によって、両者の共立した相互作用—-それは局所に見出される社会性だ—-を構想するためには、受動、能動の対立軸をぶれさせ、両者の共立を実現するための、新たな概念装置が必要となるだろう。それが、「能動的受動性」「受動的能動性」である。
能動的受動性とは何か。それは受動的であることに積極的であることを意味する。だれかが何かアクションを起こし、自分はそれに従う。このような受動的状態の実現に向けて能動的積極的アクションを起こす。それが能動的受動性である。
最も端的な能動的受動性は、「いらっしゃいませ」であろう。英語なら、メイーアイ・ヘルプーユー、「何かお手伝いしましょうか」というわけだ。自分から能動的に何かするのではなく、ひたすら、やらせて欲しいと頼み込む。だから、ここにあるのは能動的受動性である。
(郡司ペギオ-幸夫著『群れは意識を持つ-個の自由と集団の秩序』)p151

映画『エリジウム』に描かれた都市

メガグローバル企業のための超-超高層ビル計画案

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関空人工島の地質構造

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埋め立てによる海底地盤の圧密沈下(関西空港)

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コンクリートのアルカリ骨材反応

アルカリ骨材反応(wiki)

アルカリ骨材反応は、コンクリート中で、素材である岩石(骨材)中のシリカ分が強アルカリによって溶解する現象である。
シリカは、石灰岩を除く岩石中に40%~80%含まれている、ごく一般的な鉱物である。シリカが溶けるということは、岩石が溶解することを意味する。岩石が溶解することはコンクリートが崩壊することである。シリカは石英のような結晶であれば安定であるが、それでもPhが10を超えるような強アルカリ性の水に対しては100ppmくらいは溶解する。これが非晶質になると、アルカリ性の水に対して極めて溶けやすくなり、Ph10の場合の溶解度は1000ppmに達する。
このことはシリカを含んでいるすべての岩石は、コンクリート中のアルカリ濃度がある限界を超えると溶け始めること言うことを意味する。
(小林一輔著『コンクリートが危ない』p74)

我が国のセメント工場では、昭和40年代から50年台半ばにかけて、セメントの製造方法を省エネルギー、大気汚染防止、量産という三拍子揃った効果が期待できる新しい方法に転換した。この方法が、サスペンション・プレヒーターを装備したキルンを用いる方法である。
しかし、この製造方法の特徴である徹底した熱管理が、結果的にキルン内部のアルカリ分を濃縮させることになった。具体的にはキルンやプレヒーター中で生成したアルカリ硝酸塩が、送り込まれてくる原料とともに、ふたたびキルンの焼成帯で揮散し、プレヒーター内で業種するためにアルカリの循環が行われる。循環する気化成分(アルカリと硫黄)の量は、もともと原料に含まれていた量に比べて5~10倍に達したのである。これがクリンカーに導入されて、異常にアルカリ分の多いセメントを供給することになった。
(同書p79)

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未来都市の断面図

東京断面図

利便性の高い駅周辺には、超高層ビルが林立。

一方、この区域の外に広がる周縁部は、前世代に建設された建築物が解体されることなく廃墟になっている。廃墟化した地域は、材料の劣化による倒壊の危険があるため、立入禁止になっている。

利子率革命

水野 依然として金余りだと思いますね。その背後には、二一世紀の利子率革命があります。利子率革命とは、具体的には2%以下の超低金利が長期間続く状況を意味しますが、10年以上に渡ってそれが続くと現在の経済・社会システムが崩壊してしまうという点で、まさに利子革命なのです。実際、日本の10年国債利回りば、1997年9月に2%を下回って以降、現在にいたるまでその水準が続き、すでに12年目に突入しています。これは、超低今利の最長記録だったイタリアージェノバの11年(1611~21年)をも上回っています。この17世紀初頭のイタリアで起きた利子率革命は、「長い16世紀(1450~1650年)」を通じて中世荘園制・封建制社会から近代資本主義・主権国家へとシステムを一変させました。日本が先陣を切り先進国に広がっている現在の利子率革命は、一七世紀初頭の利子率革命がもたらした資本、国家、国民の三者の利害の一致を前提とした資本主義に地殻変動が起きていることを物語っていると思います。
利子率革命のもとではどんなことが生じるかというと、投資家が満足するようなリターンを得られる投資機会がもはや存在しないということです。利子率革命の利子率とは、いわゆる実物投資のリターンをあらわしています。つまり資本投下して工場やオフィスビルをつくったりして得られるリターンが年率換算で、2%以下になるということです。現在の日本の10年国債利回りは1.4%ですから、10年間の投資期間において、ずっと1.4%のリターンしか得られない。貸倒損失が年間で1~2%発生すれば(通常の景気循環で生ずる確率、10年間のリターンはゼロないしマイナスになってしまいます。10年リスクをとって実物投資をしてもリターンがゼロなんてことは、資本家失格ですね。もちろん、利潤率が著しく低い状態が長期化することは、企業が経済活動をしていくためいくの必要最低限の資本蓄積もできないということになります。しかし、いいかえれば、それは投資機会か消滅するところまで、投資が行き渡ったということでもあります。
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加工された地形としてのコンクリート構造物

アルカリ骨材地図

腐食するコンクリート国家

さてこのような措置を講じたとしても、山陽新幹線のコンクリート構造物の余寿命はせいぜい、十五年~二〇年であろう、山陽新幹線よりも一〇年早く完成した東海道新幹線の余寿命は二〇年ていどと考えられるが、その代替線(第二東海道新幹線またはリニア中央新幹線)の建設計画は二〇年以上も前から練られている。しかし、山陽新幹線の代替線の計画が話題にのぼったことはない。
すでに工事が進められている整備新幹線の一つである九州新幹線鹿児島ルートは、西鹿児島―新大阪間を約四時間に縮めることにより、阪神地域までの日帰り往復という時間短縮効果をねらっている。しかし、完成予定の二〇年後には、山陽新幹線の寿命は尽きている。九州新幹線は、長期問にわたって高速鉄道ネットワークから切り離された状態におかれる。この事態は、収支採算性にも影響することになろう。整備新幹線の建設を進める前に、山陽新幹線問題を解決しておく必要があるのではないだろうか。
(小林一輔著『コンクリートが危ない』p70)

この本が出版されたのが1999年。
それからすでに14年が過ぎた。
山陽新幹線は、ここで小林一輔氏が指摘した寿命にまさに達しようとしている。
東海道新幹線とその将来的な代替路線としてのリニアの関係をみるより、
むしろ代替路線すらないまま崩壊に向かっている山陽新幹線に注目していく必要がある。
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コンクリートの耐久性

鉄筋コンクリートの寿命を掌る耐久性について示方書(土木学会の『コンクリート標準示方書』)はこんな記述をしている。
「構造物の耐久性とは本来、安全性、使用性、復旧性等の要求性能が設計耐用期間中のすべての期間に渡り確保されることを目的として設定されるものであるので、これらの性能と独立ではなく、これらの性能の経時変化に対する抵抗性となる。しかし、性能の経時変化を考慮して安全性、使用性、復旧性等の性能を時間の関数として評価するのは、現段階で難しく、また必ずしも経済的ではない。」
簡単に言ってしまえば、鉄筋コンクリートの寿命をきちんと設定したいが、現段階ではそれは難しく、非経済的だと言っているのである。
(溝渕利明著『コンクリート崩壊』p146)

都市との距離


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A:中津川-B:東京間
移動距離:303km
移動時間:3 時間 39 分

高速バス:5時間5分
運賃:4700円
中央ライナー/時刻表と運賃表

中央構造線/糸魚川静岡構造線

日本における巨大資本の起源

明治政府は産業政策の上でも、一応封建制限撤廃の改革を行った。たとえば元年五月の商法大意は、株仲間の閉鎖性の打破と売価の自由を謳ったが、ついで五・六年の間には各地で続々株仲間の解放が実現され、「人民の職業を束縛」することが止められ、「銘々力の及ぶ丈け、勝手に相働き候こそ、人間営の本意」たることが確認された。だがその改革の本質が何であったか、それがなお近代以前のものであったことは、政府の通商司の指導の下に設立された通商会社・為替会社が、株式会社の組織を模倣しながら、実は国家の商業金融の統制機関であったこと、通商会社の下に結成された各種商社が企業形態としてよりも、むしろ同業の統制団体として、いいかえれば株仲間的なものとして当初は成立したものであったこと、通商会社にせよ、商社にせよ、その結成が国家権力の強制によるものであったこと、などの諸点によって推察される。この半官半民的特権会社たる通商会社・為替会社には、三井・島田・小野などの両替商が政府から頭取その他の諸役に任ぜられて実務に当った。そして五年十一月の国立銀行条例によって、この特権的両替商資本は、強い前期的性格を残しつつ銀行資本に転ぜられ、しかも「国立」の名の下に、厚い国家の庇護を受けて、資本の蓄積を行い、産業への支配力を築いていったのであった。
<中略>
かかる勧業政策の過程に、三井・三菱・島田・小野などの政商資本が国家権力に密着して生長を遂げていった。三井が大政奉還以後、朝廷の為替方御用を務め、戊辰戦役の戦費調達に積極的に努力したことが、諸大名の蔵元、掛屋の相続いて倒産した維新混乱期を凌いで、いよいよ大をなしたゆえんであった。その後三井は商法会所・商法司・通商司・為替会社・造幣寮などの政府の経済関係機関に関与、また官営企業に喰い込み、ついで小野と共同で国立第一銀行を経営、さらに九年わが国最初の私立銀行三井銀行を設立した。そして三井は井上馨ら長州閥と密接な関係を結んでいた。これにたいし三菱の創設者岩崎弥太郎は、土州藩士の出身、藩船を譲り受けて、九十九商会を興し、政府の土州閥を背景として佐賀の役、西南の役にその運輸にあたって巨利を収め、またたく間に全国の航運権を収めた。
(遠山茂樹著『明治維新』p240)

明治政府に発見された真の敵としてのブルジョア民主主義勢力

 西南の役後、「国の疲弊は、勝利の喜色に蔽れて露れず、人民の怨言は凱歌の歓声に妨げられて聞え」ず、専制抑圧旧に加わる悲境のうちに、立志社は再出発を行った。身体財産は自ら治め自ら衛るべし、国力の基たる国財の増殖には、国民自ら奮起して生産通商の道を開くべしとのブルジョア的要求をはっきりつかんだ愛国社再興趣意書を掲げて、全国に向って遊説員を派遣したのは、十一(一八七八)年四月であり、ついに十三年四月、二府二二県八万七〇〇〇名の請願人総代九七名の名を以って、国会期成同盟の「国会を開設するの允許を上願するの書」を提出、ついに翌十四年の政変を惹き起すまでに昂揚した自由民権運動は、明らかに前代のそれとは異質のものであった。西南の役から十三年に至る、インフレーションが米価の騰貴をもたらし、地主層のみならず、中農層の上向を促した。かくてこの中農層の擡頭を中核に、地主・貧農層を含めて全農民層の協同戦線が、地租軽減のスローガンの下に結成され、これに、より小ブルジョア化した士族・退職官吏・教員、また都市商工業者、すなわち全人民層の参政要求の運動がもりあがったのである。ここに始めて絶対主義政権は、己れの真の敵を発見した。それは日本的な歪みを少なからずもったとはいえ、またいくばくもなく分裂解体を余儀なくされる弱味を内部に包含していたとはいえ、ブルジョア民主主義勢力であった。この後の絶対主義は、すでに形成途上のものではなく、この敵対勢力に対抗し、これを圧伏しつつ、己れを保持してゆく過程である。明治二十二(一八八九)年の大日本帝国憲法発布は、立憲制によって絶対主義を粉飾したものにはかならないが、法の防壁によって己れを守らなければならなかったのは、近代的革命勢力の攻勢の洗礼を受けたからであった。
(遠山茂樹著『明治維新』p310)

中国と日本の岐路を別けた外圧

中国における南京条約一天津条約(一八五八年)・北京条約(一八六〇年)の系列と、日本における神奈川和親条約・江戸通商条約(一八五八年)・改税約書(一八六六年)に至る系列とに現われた欧米諸列強の外交意図の根本方向は同じであった。
彼が究極において求めたところは、開港であり、外交使節の交換であり、封建支配者の干渉なき自由貿易の確立であった。しかもそれは彼我平等の関係ではない。中国でも、日本でも、いずれも片務的な、領事裁判権(この結果外人は治外法権を獲得した)・協定関税率(税率は相手方の同意なくして改定できず、すなわち関税自主権をもたず、その結果きわめて低率に釘づけされた)・最恵国条款(双務的でなく、もっぱら外国側の利益の均霑のみを規定す)を強要された不平等条約であった。それは日本ならびに中国の国際的地位を、欧米資本主義の半植民地的市場として決定したものであった。
かかる外圧にたいする中国ならびに日本の支配者の対抗の姿勢も同質のものであった。彼らは共に自己の支配の必須条件として、鎖国政策を固持してゆくことを念願してはいたが、当面外国を撃攘するだけの武力をもたなかったために、便宜的手段として開国を受諾した。しかも一旦取り結んだ条約の実施を極力延期あるいは制限しようと努力し、その結果、外国との間に種々の外交紛争を頻出した。しかも幕府・清朝の支持煽動を陰に陽に受けて、攘夷運動が激発し、ために欧米列強との間に、幾度か武力衝突が起った。中国では第一次・第二次英仏連合戦役(一八五八・六〇年)、日本では薩英戦争(一八六三年)、四国連合艦隊下関攻撃事件(一八六四年)。かくて上述の並行的な外交推移の結末として、これまた時を同じくして中国の同治中興、日本の明治維新が出現した。それは共に封建支配者がこれまでの排外主義を緩和ないし転換して、外国勢力と妥協・結合することによって、政治改革を企てたものであった。このような表面的経過の類似にもかかわらず、中国と日本との間に国家統一の様相、近代的転化(資本主義化)の速度に、大きな相違を生じた。これは、まごうかたなき事実である。その差は、中国が経済的のみならず、政治的にも次第に欧米列強の半植民地化するコースに入り込んでいったのに反し、日本が一応政治的に独立を維持しえた違いに最も端的にあらわれていた。そしてまた同治中興と明治維新との、改革としでの深さの比較にならぬ相違をもたらしたのである。この大きな岐路の原因はどこに求むべきであろうか。
 イギリスの対日政策は、対中国政策と不可分の関係にあって遂行されていたにもかかわらず、事実は、中国にたいした場合に比較して、より緩和された性格のものとしてあらわれた。それは第一には、中国との紛争に極東のイギリス軍事力の大部分が注がれたため、日本に大規模の武力行使を敢てする余裕をもたなかったこと。第二にインドおよび中国での民衆の素朴ではあるが根強い民族運動の反抗を惹き起し(一八五一-六四年の中国の太平天国の乱、五七年のインド土民兵の反乱)、その結果は、彼らの本来の目的である市場開拓が阻害されるに至り、この体験が彼らの対日外交政策をきわめて慎重かつ消極的たらしめたこと。すなわち「既存の政府が代表し統制している力と秩序との諸要素があるのを尊重する」態度に出でしめたこと。
(遠山茂樹著『明治維新』p45)

明治維新を準備した天保期の百姓一揆

この時期の百姓一揆の発展は、件数の増大にとどまらなかった。闘争目標の上でも、これまでの、代官の非法に反抗し、貢租増徴に反対する消極的要求から、村内の庄屋・地主、商業高利貸資本家層へ攻撃をかけることによって、土地改革、農業革命への方向をもつ積極的な要求を併せ掲げるまでに進みつつあった。闘争の形態の点でも、孤立分散の村落民の局地的一時的な結集から、一層広範囲の耕作農民の持続的な団結へと進みつつあった。この発展の基礎には、封建的農業の自給自足的自然経済を侵蝕し解体せしめる商品経済の進行があった。それは封建支配者の財政を窮乏せしめ、その結果は貢租の増徴となって、農民の生活を破局に追いこみ(天保期の飢饉の頻発はその象徴である)、かくて農民の反抗を不可避にするとともに、他面小商品生産者化しつつある農民の共通利害を広汎に成立せしめることによって、彼らに組織と力とを付与する作用をはたした。
かかる下からの革命力の生長に対抗して、封建支配者は、権力の再建強化に懸命の努力を払った。だが時勢はもはや単純な復古的再建を許さなかった。封建社会の胎内にはらまれた資本制的生産関係の伸びゆく力は、到底抑え切れるものではなかった。かくてこのブルジョア的発展の成果をめぐって、これを何人がつかみとるか、生産者の側か、それとも封建支配者およびこれと共生的関係を結ぶ前期的資本(特権的商業高利貸資本)の側か、前者を代表するものは、農民革命への発展の方向を示しつつある百姓一揆、後者を代表するものは、封建権力の絶対主義的改革として、両者の間にはげしく争われた。その結果、後者の側がひとまず勝利を占め、明治維新の根本方向が決定される端緒が開かれたのが、天保期の幕政改革ならびにこの前後に同様の政策をとった諸藩の藩政改革の意義であった。
(遠山茂樹著『明治維新』p23)