明治維新を準備した天保期の百姓一揆

この時期の百姓一揆の発展は、件数の増大にとどまらなかった。闘争目標の上でも、これまでの、代官の非法に反抗し、貢租増徴に反対する消極的要求から、村内の庄屋・地主、商業高利貸資本家層へ攻撃をかけることによって、土地改革、農業革命への方向をもつ積極的な要求を併せ掲げるまでに進みつつあった。闘争の形態の点でも、孤立分散の村落民の局地的一時的な結集から、一層広範囲の耕作農民の持続的な団結へと進みつつあった。この発展の基礎には、封建的農業の自給自足的自然経済を侵蝕し解体せしめる商品経済の進行があった。それは封建支配者の財政を窮乏せしめ、その結果は貢租の増徴となって、農民の生活を破局に追いこみ(天保期の飢饉の頻発はその象徴である)、かくて農民の反抗を不可避にするとともに、他面小商品生産者化しつつある農民の共通利害を広汎に成立せしめることによって、彼らに組織と力とを付与する作用をはたした。
かかる下からの革命力の生長に対抗して、封建支配者は、権力の再建強化に懸命の努力を払った。だが時勢はもはや単純な復古的再建を許さなかった。封建社会の胎内にはらまれた資本制的生産関係の伸びゆく力は、到底抑え切れるものではなかった。かくてこのブルジョア的発展の成果をめぐって、これを何人がつかみとるか、生産者の側か、それとも封建支配者およびこれと共生的関係を結ぶ前期的資本(特権的商業高利貸資本)の側か、前者を代表するものは、農民革命への発展の方向を示しつつある百姓一揆、後者を代表するものは、封建権力の絶対主義的改革として、両者の間にはげしく争われた。その結果、後者の側がひとまず勝利を占め、明治維新の根本方向が決定される端緒が開かれたのが、天保期の幕政改革ならびにこの前後に同様の政策をとった諸藩の藩政改革の意義であった。
(遠山茂樹著『明治維新』p23)

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