明治政府は産業政策の上でも、一応封建制限撤廃の改革を行った。たとえば元年五月の商法大意は、株仲間の閉鎖性の打破と売価の自由を謳ったが、ついで五・六年の間には各地で続々株仲間の解放が実現され、「人民の職業を束縛」することが止められ、「銘々力の及ぶ丈け、勝手に相働き候こそ、人間営の本意」たることが確認された。だがその改革の本質が何であったか、それがなお近代以前のものであったことは、政府の通商司の指導の下に設立された通商会社・為替会社が、株式会社の組織を模倣しながら、実は国家の商業金融の統制機関であったこと、通商会社の下に結成された各種商社が企業形態としてよりも、むしろ同業の統制団体として、いいかえれば株仲間的なものとして当初は成立したものであったこと、通商会社にせよ、商社にせよ、その結成が国家権力の強制によるものであったこと、などの諸点によって推察される。この半官半民的特権会社たる通商会社・為替会社には、三井・島田・小野などの両替商が政府から頭取その他の諸役に任ぜられて実務に当った。そして五年十一月の国立銀行条例によって、この特権的両替商資本は、強い前期的性格を残しつつ銀行資本に転ぜられ、しかも「国立」の名の下に、厚い国家の庇護を受けて、資本の蓄積を行い、産業への支配力を築いていったのであった。
<中略>
かかる勧業政策の過程に、三井・三菱・島田・小野などの政商資本が国家権力に密着して生長を遂げていった。三井が大政奉還以後、朝廷の為替方御用を務め、戊辰戦役の戦費調達に積極的に努力したことが、諸大名の蔵元、掛屋の相続いて倒産した維新混乱期を凌いで、いよいよ大をなしたゆえんであった。その後三井は商法会所・商法司・通商司・為替会社・造幣寮などの政府の経済関係機関に関与、また官営企業に喰い込み、ついで小野と共同で国立第一銀行を経営、さらに九年わが国最初の私立銀行三井銀行を設立した。そして三井は井上馨ら長州閥と密接な関係を結んでいた。これにたいし三菱の創設者岩崎弥太郎は、土州藩士の出身、藩船を譲り受けて、九十九商会を興し、政府の土州閥を背景として佐賀の役、西南の役にその運輸にあたって巨利を収め、またたく間に全国の航運権を収めた。
(遠山茂樹著『明治維新』p240)
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