今年は、これまでの方向性をさらに進めて、生業の建築設計ととに、未来都市構想の計画、自転車の研究、さらに不動産や金融の世界にも脚を踏み入れたいと考えている。
3.11以降、インフラに注目してきた。
今やディスプレイ上では、あらゆる煌びやかな表現が可能になっているようにみえる。
しかし、それらの表象が、地面や電気といったインフラによって支えられており、その制約を受けている。
そして、インフラに注目しない限り、現在の行き詰った状況に対処できない。
大地震は、そのことに気づかせてくれた。
それまで建築デザインや芸術などといった表象に興味をもって活動してきたが、3.11を契機にそれまでの方向性を転回せざるを得なくなったわけである。
そもそも建築は、雑多な要素が交錯して成り立っている。
むしろ、建築デザインなどなくても建築は建つが、お金と建築材料がなければ建築は建たない。
それまで、デザインや芸術に目を奪われてきたが、建築という枠組みのなかには、インフラについて検討する題材が揃っている。
また、建築設計は、元来専門性が低い業種である。
このことも、現在の状況に対して、いい方向に作用する。
雑多な要素が交錯するものを整理し、パッチワークとしてまとめるのが建築設計の本質でもあるとすれば、状況に応じて、ジャンルの壁を越えて必要な方向へ躊躇なく進むことができる。
現在のようなこれまで基準が行き詰まり、次のフェーズに移行しようとしている段階では、歴史的につくられてきたジャンル分けなどが、ほとんど意味を持たなくなってくる。むしろ、ジャンルの壁に遮られていては、次のフェーズを見通すことはできないだろう。
もちろん、軸がない分、かなりの大風呂敷になる可能性があり、専門家からすれば、素人の浅知恵と思われかねないが、もともと専門性が低いという前提の上で、建築設計の本質であるパッチワークこそを専門家がもたない長所として利用できるのではないか。
インフラと一言で言っても、思い描いている見取図には、大きく二つの方向性がある。
一つは物質の世界、もう一つは経済の世界。
人と物との関係、人と人との関係、とも言い換えてもいい。
物質の世界に対しては、当面、身体の問題を趣味の自転車を通して行うことと、材料の劣化と人口減少という側面から、未来都市構想を検討する。
以前、農業などを通して、この問題に関わろうとしたが、建築設計の生業との相性が悪く、中断している。
建築設計も締切に厳しいが、農業も建築設計以上にスケジュールが厳しい。
農業を多少経験するとわかるのだが、栽培する品種によって、種まきから収穫まで、季節や気温などによって、かなり厳密にスケジュールが決まっている。
この厳密なスケジュールに合わせながら、その一方で、建築設計を両立させることは、ほとんど困難だとわかった。
また、この世界は、金銭的にあまり報われない。
再チャレンジの機会をうかがっているものの、農業への参入は、かなりハードルが高い。
農業に代わって、手軽にできるものとして始めたのが、身体の検討をスポーツを通して行うことと、材料の劣化と人口減少から演繹する未来都市の構想である。
スポーツの中でも、特に自転車は建築とかなり親近性がある。建築を抽象化して、道具の一種と捉えれば、道具と身体との関係性という意味で、自転車は建築とつながっている。
競技の性質上、自転車という道具と身体との関係が、他のスポーツよりも重要である。
さらに、自転車は運動がシンプルであり、数値化できるため、道具と身体を検討する上でのミニマムな関係として、優れている。
例えば、サッカーでも、ボールという道具と身体との関係は、ある。しかし、サッカーで行われる運動は非常に複雑な上、チーム競技でもある。身体と道具以外の多くの要素が絡み合っており、身体と道具の関係の検討にとって、ノイズが多すぎる。
未来都市の構想は、空想的都市構想であるため、物質的問題というより、表象的、イリュージョン、と捉えられるかもしれないが、ここではむしろ物質的な問題と繋がっている。
未来都市構想は、人口減少と物質劣化という物質的から演繹した場合の都市像を描くことがテーマである。
現在、最大値だといわれる日本の人口が、今後少子高齢化によって、減少していった場合、いうまでもなく、今ある建築物の多くは不要になる。
また、鉄筋コンクリートは、コンクリートの中性化とそれに伴う鉄筋の酸化(錆の発生)によって、耐用年数が限界づけらている。そのため、遅くとも100年以内にすべての鉄筋コンクリート造の建物は安全性を維持できなくなる。
また、歴史的には使用できなくなった建築は取り壊されてきた。しかし、現在の膨れ上がった物量の鉄筋コンクリート造の建築物の解体は経済的なキャパシティー超えており、解体されることなく、据え置かれる可能性が高い。
また、杭の問題も建築の更新に大きな制約を与えるだろう。
これまで、建築を取り壊せば、土地は元の通りになり、その土地の上にまた新しい建築を建てられると考えられてきた。
ところが、現代の巨大な建築物を支えるため、地中に杭を打つ必要が生まれている。
一度打った杭は、引き抜くことが難しく、コストもかかるため、現代の建物が建替えの必要に迫られたとしても、地下に埋まった杭を完全に撤去することはできないだろう。
これらの物理的な条件を踏まえれば、現代都市を100年後も維持し続けることは、ほとんど困難である。
その都市の姿を、預言的に描いておこう、というのが、今進めている未来都市構想に込められた意図である。
そして、もう一方の経済(人と人との関係)に当てはまる活動として、不動産と金融がある。
数年前より不動産投資用の建築物を中心に、建築設計を行っているが、今後は直接不動産業を行いたい。
また、昨年より始めた、経済動向や株や為替といったもの扱う金融の研究も本格化させたい。
こちらは、お金という数字だけで表現される世界であるため、建築物という物質を扱う不動産投資より一層抽象度が高いものになりそうである。
とはいえ、意外にも建築で培った知識や技術が利用できそうである。
つまり、コンドラチェフ波動や柄谷行人のいうところの社会構成の循環性など、景気や社会構成には、循環性が認められるが、その原理を、力学で解析できる可能性がある。
人は、モノの取引する場合、出来るだけ安く買い、出来るだけ高く売る、という欲求を持っている。
ある相場で取引されている品物に対して、相場より高い価格の商品はそれより安く取引されるよう力が働き、相場より低いものはより高く取引されるよう力が働く。これは、いわば、ばねにかかる力と同じ構造を持っている。
よって、その挙動は力学によって解析できるはずなのだ。
ばねと異なるのは、ばねはしっかりと土台に固定されるのに対して、相場には、基礎となるような土台がない。いわば、無重力の空中を舞うばねのようなものである点かもしれない。
(もちろん、この一点によって、用いる数学は、異常に複雑ものになる。)
さらに、一つの商品に対してではなく、その挙動を物価全体に当てはめれば、価格の上昇が「インフレ」、下降が「デフレ」として現象する仕組みも同様の構造をもっていると考えられるだろう。
原理的に、力学的な規則性をもっていれば、景気や社会構成が、規則性・循環性をもつのは必然である。
商品の価格については、様々な研究が行われている。
これまで古典経済学では、金を掘削する労働の人件費をその根拠に充てようとした。あるいは、「見えざる手」によって、安定した平衡状態に移行すると考えられてきた。
また、ポスト構造主義では、論理的に根拠を求めていっても、なにも見つからない。むしろ、商品と貨幣との関係は「命がけの飛躍」があるだけだ、といわれてきた。
しかし、そのどちらも自分たちが普段生活している実態とは違っているのはいうまでもない。
今や金が貨幣の根拠にはなっていないのは明らかだし、一方で「命がけの飛躍」で価格が決められているといっても、取引の際には、歴然とした「相場」があり、人々はそれより安い品物を買い求め、高く売ろうとする。
「命がけの飛躍」という言葉は、ロジックの世界でしか通用しない。
いずれ平衡状態に移行する「見えざる手」は、力学的という意味では近いが、そのような平衡状態も現実には存在しない。「景気」によって、物価は上がったり下がったりしているのである。
そのような理論の限界を、無重力の空中を舞うばねの挙動をとらえられる力学によって越えられる、と考えている。
大風呂敷を広げすぎている感もあり、一人で行うには手に余るものもあるが、このような構想に基づいて当面活動を進めていくつもりである。
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