利便性の高い駅周辺には、超高層ビルが林立。
一方、この区域の外に広がる周縁部は、前世代に建設された建築物が解体されることなく廃墟になっている。廃墟化した地域は、材料の劣化による倒壊の危険があるため、立入禁止になっている。
戦国大名の財力や兵力をも意味していた石高が、人を養っていけるエネルギー量(米の量)から換算された単位だというのは、興味深い。
前近代では、一人の人間が生きていくために必要なエネルギー量にそれほど大きな差はなかった。
そのため、保持しているエネルギー量が、そのまま経済力、兵力として換算できたのだろう。
1石は下位単位では10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当する。米1合がおおむね大人の1食分とされているので、1石は社会構成員1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見なされ、示準として換算されてきた(365日×3合/日=1095合。ただし、東アジアで広く使われていた太陰太陽暦では1年の日数は年によって異なる)。
なお、現在、生産力が増加した結果、一反での米の収穫量は、3.5石(522kg=約3500合)である。
「1反」は、約10アール=1000㎡。
電気事業連合会HP「電気の広場」にある、家庭での消費電力量の推移のグラフをまとめてみた。
1970年と比較して、年当たりで3倍、特に真夏に限れば最大5倍も、増加していることがわかる。
ただ、おおよそ1995年から微増になり、2009年には1995年のレベルより減少している。
つまりこのグラフから、新しい電化製品の登場によって大幅に変化してきた生活様式が、1995年ごろ完成されたと読むことができる。
生活の基本を「衣食住」というように、人間が生きていくために食べ物を欠くことはできない。そして、食によって摂取しなくてはならない栄養素を大きく分けると、以下の5つになるらしい。よく、お金を稼ぐために働くことを「食うために働く。」などと表現するが、これらの栄養素を入手さえできれば、お金がなくても生きられる。逆にお金を持っていても、これらの栄養素を入手できなければ生きられない。お金を出せば、食べたいだけの食料が手に入る流通の仕組みが、今のところうまく機能しているために、この 当たり前のことが、意外と忘れられている。。。。。しかし、近い将来、人口の増加に対して、食料の供給が追いつかなくなるという予想が立てられている。お金を出せば、食べたいだけの食料が手に入るという仕組みが永遠に機能しつづける保証はどこにもない。 Read more »
現在、日本では、一年間に約4億5000万tの廃棄物(一般廃棄物と産業廃棄物の合計)が排出されています。そのうち約6000万tの廃棄物がそれ以上処理が出来ない廃棄物として最終処分場に埋めたれられています。このまま廃棄物の排出量が増え続ければ、最終処分場がいっぱいになってしまいます。たとえ当面の間、最終処分場を確保することが出来たとしても、いつか必ずこれ以上は廃棄物を埋め立てれられないという状況が必ずやってきます。(『ごみ問題100の知識』p40(左巻健男・金谷健編著 東京書籍2004年)
自然はつねに同一であるというポピュラーな信念-これまで環境決定論という静態的な理論ならびにその同様に静態的な否定論を生み出してきた信念-とは反対に、人間が時には単純な、時には複雑な歴史的原因に対応して、その技術的用具・社会組織・世界観を根本的に変化されるときにはいつでも、自然も根本的に変化しているのである。人間は決してその自然環境に作用することをやめない。人間は不断に自然を変形し、彼の努力が彼に新しい水準の活動をもたらすときにはいつでも、人間は新しい[生産]力を現実化しているのである。新しい水準の活動に到達しうるかどうか、到達したとしても、それがどこに導くかは、第一には、制度的秩序、第二には、人間活動の究極の対象-人間活動が獲得しうる物理的、科学的、生物的世界-に依存する。制度的条件が同一であるならば、自然的背景の相違が新しい形態の技術・生活・社会管理の発展を可能にしたりするのである。(『オリエンタル・デスポティズム』カール・A・ウィットフォーゲル著・湯浅赳男訳・新評論)