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新型コロナウイルスに関する数学的考察2

新型コロナウイルスについて。続き。

「再生産指数(RO)が1.0以下になれば、指数関数的に感染者数が下がる。」

先の投稿で、このようにと書いたのだが、現実的に、そんなことが可能なのか? 再生産指数(RO)が1.0以下とは、平たく言い換えれば、ある感染者が一人以上の人にはウイルスを移してはいけない、ということである。

自覚症状のない人は、無意識のうちにウイルスをばら撒いているはずであり、感染者を完全に隔離できない状況で、再生産指数1.0以下はほとんど不可能ではないか。

指数関数(F(x)=N^x, N>1.0)では、X値をすこし変化させただけで、簡単に天文学的数字に達してしまう。 だとすると、いくら対策を練ったところで、感染の拡大は避けられそうにない。 できるとすれば、その速度を多少送らせることくらいである。

(もちろん、最終的な解決法は、ワクチンの開発しかないとしても、時間稼ぎによって、多くの命が救われる。)

https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/index.html

先に紹介した札幌医科大学で作成されたグラフにおいて、どの地域でも訪れる平衡状態は、やはり感染防止対策によるものではなく、感染拡大の上限値に達したと考えるべきだろう。 その場合、その上限値がなにによって決まるのか。

このグラフをよく見ると、ヨーロッパの国々の感染率が高く、中国、韓国といったアジアは低い。 これは、生活習慣や人種による抗体の性質によるものだろうか。 もう少し掘り下げてみれば、何らかの関係性が見つかるだろう。

いずれにしても、これは、数学的に把握できる問題だと思う。

Great Pyramid of Tokyo

ピラミッドの面積
6.9kmx7.8km /2=2690ha

各辺から20%勾配で盛土した場合の高さ
H=2.2kmxtan20=800m

ピラミッドの体積
26,900,000×800 /3=7,173,333,333㎥

海洋環境における金属材料の腐食と防食

海洋環境における金属材料の腐食と防食

フローリング

腐食するコンクリート国家

さてこのような措置を講じたとしても、山陽新幹線のコンクリート構造物の余寿命はせいぜい、十五年~二〇年であろう、山陽新幹線よりも一〇年早く完成した東海道新幹線の余寿命は二〇年ていどと考えられるが、その代替線(第二東海道新幹線またはリニア中央新幹線)の建設計画は二〇年以上も前から練られている。しかし、山陽新幹線の代替線の計画が話題にのぼったことはない。
すでに工事が進められている整備新幹線の一つである九州新幹線鹿児島ルートは、西鹿児島―新大阪間を約四時間に縮めることにより、阪神地域までの日帰り往復という時間短縮効果をねらっている。しかし、完成予定の二〇年後には、山陽新幹線の寿命は尽きている。九州新幹線は、長期問にわたって高速鉄道ネットワークから切り離された状態におかれる。この事態は、収支採算性にも影響することになろう。整備新幹線の建設を進める前に、山陽新幹線問題を解決しておく必要があるのではないだろうか。
(小林一輔著『コンクリートが危ない』p70)

この本が出版されたのが1999年。
それからすでに14年が過ぎた。
山陽新幹線は、ここで小林一輔氏が指摘した寿命にまさに達しようとしている。
東海道新幹線とその将来的な代替路線としてのリニアの関係をみるより、
むしろ代替路線すらないまま崩壊に向かっている山陽新幹線に注目していく必要がある。
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コンクリートの耐久性

鉄筋コンクリートの寿命を掌る耐久性について示方書(土木学会の『コンクリート標準示方書』)はこんな記述をしている。
「構造物の耐久性とは本来、安全性、使用性、復旧性等の要求性能が設計耐用期間中のすべての期間に渡り確保されることを目的として設定されるものであるので、これらの性能と独立ではなく、これらの性能の経時変化に対する抵抗性となる。しかし、性能の経時変化を考慮して安全性、使用性、復旧性等の性能を時間の関数として評価するのは、現段階で難しく、また必ずしも経済的ではない。」
簡単に言ってしまえば、鉄筋コンクリートの寿命をきちんと設定したいが、現段階ではそれは難しく、非経済的だと言っているのである。
(溝渕利明著『コンクリート崩壊』p146)

野生の思考

野生の思考を規定するものは、人類がもはやその後は絶えて経験したことの無いほど激しい象徴意欲であり、同時に、全面的に具体性へ向けられた細心の注意力であり、さらに、この二つの態度が実は一つのものだという暗黙の信念であるとするならば、それはまさに野生の思考が、理論的見地からも実際的見地からも、コントがその能力なしとした「継続的関心」に基づくものであるということではないか?人間が観察し、実験し、分類し、推論するのは、勝手な迷信に刺激されてではなく、また偶然の気紛れのせいでもない。文明の諸技術の発見に偶然の作用が一役を演じたものとするのが素朴な考えである事は本書のはじめに見たとおりである。

 もしこれら二つの説明〔迷信と偶然と〕のうちのどちらかを選ばなければならないとすれば、コントの説明〔迷信〕の方がまだましであろう。ただしその説明の基礎にある推論の誤りを除去しなければならない。コントの考えでは知的進化はすべて「神学的哲学のもつ避け難い原初的支配力」に起原がある。すなわち人間が自然現象を解釈するためには、はじめはどうしても、「これに限っては生成の根源的様式を必ず把握できるという自信をもてる現象であるところの、人間自身の行為」と同化して考えざるを得ないのである。しかしながら、同時に逆の手続で、人間が自分自身の行為に自然現象と比べうる力と有効性を考えなかったとしたら、どうして自然現象と人間の行為を同化することができようか?人類が外化して作り上げるこの人間像は、自然の力が前もってその中に内化されていないかぎり、神の雛形とはなり得ない。人間は自然と自己との間に類似性を認めてきた。それにもかかわらず、人間が、自らの欲求にその自然の属性を見ることなしに、自然には人間の意志と同じような意志があるのだと考えたらしい、と思い込んだところに、コントおよびその後継者の大多数の誤りがあった。もし人間が自らの無力感だけから出発したのだとすれば、それはけっして人間に説明の原理を与えはしなかったであろう。
 真実のところ、効率のある実際的活動と有効性のない呪術的儀礼的活動との差異は、世間で考えられているように両者をそれぞれ客観的方向性と主観的方向性とで定義してつかみ得るものではない。それは事がらを外側から見るときには本当らしく見えるかも知れないが、行為主体の立場から見れば関係は逆転する。行為主体にとっては実際活動はその原理において主観的であり、その方向性において遠心的である。その活助は自然界に対する行為主体の干渉に由来するからである。それに対して呪術操作は、宇山の客観的秩序への附加と考えられる。その操作を行う人間にとっては、呪術は自然要因の連鎖と同じ必然性をもつものであり、行為主体は、儀礼という形式の下に、その鎖にただ補助的な輪をつけ加えるだけだと考える。したがって彼は呪術操作を、外側から、あたかも自分かやることではないかのように見ているつもりでいる。
 伝統的な見かたをこのように修正すると、誤った問題を一つ排除することができる。呪術操作において欺陥やトリックに頼るのが「常態」であるということを、ある人々は問題としている。ところが、自然の因果性に対して、それを補ったり流れをかえたりして人間が介入しうるという信仰に呪術の体系が全面的にのっかっているとしたら、その介入の量的多少は大した問題ではない。トリックは呪術と同質のものであり、本来的に、呪術師に「ペテン」はありえないのである。呪術師の理論と実際との差は、本性的な違いではなくて程度の問題である。
 第二に、呪術と宗教との関係という激しい議論を呼んだ問題がはっきりする。もしある意味において、宗教とは自然法則の人間化であり、呪術とは人間行動の自然化-ある種の人間行動を自然界の因果性の一部分をなすものであるが如くに取扱う━であると言うことができるなら、呪術と宗教は二者択一の両項でもなければ、一つの発展過程の二段階でもないことになる。自然の擬人化(宗教の成立基礎)と人間の擬自然化(私はこれで呪術を定義する)とは、つねに与えられている二つの分力であって、その配分だけが変化するのである。前に記したごとく、この両者は
それぞれ他方と連立している。呪術のない宗教もなければ、少くとも宗教の種を含まぬ呪術もない。超自然の観念は自ら超自然的な力ありと考え、代りに自然には超人間的な力を想定する人間にしか存在しない。
 未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかと言い当てるオーストラリアの原住民のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらに目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いまあいての車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。この比較はまったくとっぴに見えるけれども、多くのことをわれわれに教えてくれる。われわれの能力が研ぎ澄まされ、近くが鋭敏になり、判断が確実性を増すのは、ひとつには、われわれの持つ手段とわれわれの冒す危険とがエンジンの機械力によって比較にならなうほど増大したためであり、もうひとつには、この力を自分のものとしたという感情から来る緊張方の運転里の一連の対話の中で働いて、自分の気持ちに似た相手の気持ちが記号の形で表されることになり、まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。
このようにわれわれは、人間と世界がお互いに他方の鏡となるという、展望の相互性が機械文明の面に写されているのを再び見出すのである。そしてこの相互展望は、それだけで、野生の思考の属性と能力を教えてくれることができるように思われる。
レヴィ=ストロース著『野生の思考』p263

ブリコラージュから生まれる万華鏡的神話

 各項が心理的過程もしくは歴史的過程のなごりの断片であり、したがって必然性を欠いているような論理を考えるのは、たしかにいささか逆説的である。論理とは必然的関係の設定である。なんらそのような機能を果たすようにはできていない各項のあいだに、どうして必然的関係が立てられようか? 命題はその各項が曖昧さの余地なくあらかじめ明確に定義されているのでなければ、厳密なつながりをもち得ない。前章においてわれわれは、経験的(結果的)にのみ成り立つ必然性の諸条件を見出そうという、不可能な仕事を自らに課したのではなかろうか?
 しかしながら、第一に、これらの断片がそうした性質を示すのは、それらを生み出した歴史の目で見るときだけであって、それらの目的である論理の観点からすればそうはならないのである。それらが雑多不整であると言えるのは、もっぱら内容についてである。形式については、それらの断片のあいだには類似性がある。それは、すでにブリコラージュの例で明らかにしたところである。すなわち類似性は、それら断片の形式そのものの中に内容の一定量がはいっている点にあり、またその内容の量は、断片のすべてについてほぼ等しい。神話の用いる能記としての比喩も器用人の用いる材料もともに、二重の基準によって定義できる要素である。それらは、一つの言説を構成する単語として、「すでに使われた」ものである。神話的思索がそれを分解するのは、器用人が古い目覚まし時計を分解してその歯車をとっておくのに似ている。それらの要素は「まだ使える」ものである。もとと同じ用途にも使えるし、また機能を少しかえて別の用途にも使える。
 第二に、神話の用いる比喩も、器用人の材料も、純粋な生成過程から生じたものではない。新しい用途に使おうとして観察すると、それらには厳密さが欠如しているように見えるが、かつてそれらが統一性をもった全体の一部を構成していたときには、その厳密さを保有していたのである。それのみならず、それらが原料ではなくてすでに手を加えられた加工品であるという限りにおいては、依然としてその厳密さを保持している。言語活動の構成単位、また器用仕事の場合なら一つの技術的体系〔エ作物をさす〕の構成単位として、それらは必然的関係の凝縮された表現である。過去の必然的関係は、その後これらの要素を利用するとき制約となり、その各段階においてさまざまな形で反響する。それらのもつ必然性は単純かつ一義的なものではない。しかしながらそれは存在する。要素それぞれにおこりうる諸変換をまとめた群を定義する意味的もしくは美的な不変式として存在する。そしてその変換の数が無限でないことはすでに見たとおりである。
 この論理の働きかたはカレイドスコープ(万華鏡)にやや似ている。カレイドスコープ心断片を内蔵し、それを用いて構造的配列を作り上げる。それらの断片は、それ自体偶然的な破壊の過程から生ずるものであるが、形、色合のはがやかさ、透明性など、あるいくらかの相同性をもっていなければならない。かつて製品として一つの「言説」を述べていたときにくらべると、それらはもはや固有の存在性をもたず、名状すべからざる断片になってしまっている。
しかしながら、他の観点からすれば、新しい型の存在の形成に有効に参加するに足るだけの存在性はもっているはずである。この新しい存在は、鏡の作用で、像がもの自体と等価値になるような、すなわち、記号がその指示対象と同列に並ぶような配列として成立する。これらの配列は、いろいろな変形の可能性の現実化である。その可能性の数は、非常に多いものであるにしても、やはり無限ではない。なぜならそれは有限個の物体のあいだにおこりうる可能な配置と均衡の関数だからである。さらにとりわけ、これらの配列は、偶然的出来事(見る人によるカレイドスコープの回転)と法則(カレイドスコープの構成を支配する法則━さきほど述べた、諸制約共通の不変要素に対応する)が出合って成立し、了解性の暫定モデルとでも言うべきものを映し出すのである。なぜならば、配列のそれぞれは、それを構成する各部分のあいだの厳密な関係の形で表現することが可能であり、またそれらの関係は、配列自体以外に内容をもたず、見る人の経験の中にはその配列に対応するものがなにもないからである。(もっとも、このような見かたをすれば、カレイドス=Iプを見ている人に、あるいくらかの客観的構造がその経験的支持物〔その構造をもった具体的事物〕以前に示されることは起りうるIたとえば、雪の結晶の構造やある種の放散虫類や植草類の構造が、それらのものを一度も見たことのない人に。)

レヴィ=ストロース著『野生の思考』p42

橋梁

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