野生の思考

野生の思考を規定するものは、人類がもはやその後は絶えて経験したことの無いほど激しい象徴意欲であり、同時に、全面的に具体性へ向けられた細心の注意力であり、さらに、この二つの態度が実は一つのものだという暗黙の信念であるとするならば、それはまさに野生の思考が、理論的見地からも実際的見地からも、コントがその能力なしとした「継続的関心」に基づくものであるということではないか?人間が観察し、実験し、分類し、推論するのは、勝手な迷信に刺激されてではなく、また偶然の気紛れのせいでもない。文明の諸技術の発見に偶然の作用が一役を演じたものとするのが素朴な考えである事は本書のはじめに見たとおりである。

 もしこれら二つの説明〔迷信と偶然と〕のうちのどちらかを選ばなければならないとすれば、コントの説明〔迷信〕の方がまだましであろう。ただしその説明の基礎にある推論の誤りを除去しなければならない。コントの考えでは知的進化はすべて「神学的哲学のもつ避け難い原初的支配力」に起原がある。すなわち人間が自然現象を解釈するためには、はじめはどうしても、「これに限っては生成の根源的様式を必ず把握できるという自信をもてる現象であるところの、人間自身の行為」と同化して考えざるを得ないのである。しかしながら、同時に逆の手続で、人間が自分自身の行為に自然現象と比べうる力と有効性を考えなかったとしたら、どうして自然現象と人間の行為を同化することができようか?人類が外化して作り上げるこの人間像は、自然の力が前もってその中に内化されていないかぎり、神の雛形とはなり得ない。人間は自然と自己との間に類似性を認めてきた。それにもかかわらず、人間が、自らの欲求にその自然の属性を見ることなしに、自然には人間の意志と同じような意志があるのだと考えたらしい、と思い込んだところに、コントおよびその後継者の大多数の誤りがあった。もし人間が自らの無力感だけから出発したのだとすれば、それはけっして人間に説明の原理を与えはしなかったであろう。
 真実のところ、効率のある実際的活動と有効性のない呪術的儀礼的活動との差異は、世間で考えられているように両者をそれぞれ客観的方向性と主観的方向性とで定義してつかみ得るものではない。それは事がらを外側から見るときには本当らしく見えるかも知れないが、行為主体の立場から見れば関係は逆転する。行為主体にとっては実際活動はその原理において主観的であり、その方向性において遠心的である。その活助は自然界に対する行為主体の干渉に由来するからである。それに対して呪術操作は、宇山の客観的秩序への附加と考えられる。その操作を行う人間にとっては、呪術は自然要因の連鎖と同じ必然性をもつものであり、行為主体は、儀礼という形式の下に、その鎖にただ補助的な輪をつけ加えるだけだと考える。したがって彼は呪術操作を、外側から、あたかも自分かやることではないかのように見ているつもりでいる。
 伝統的な見かたをこのように修正すると、誤った問題を一つ排除することができる。呪術操作において欺陥やトリックに頼るのが「常態」であるということを、ある人々は問題としている。ところが、自然の因果性に対して、それを補ったり流れをかえたりして人間が介入しうるという信仰に呪術の体系が全面的にのっかっているとしたら、その介入の量的多少は大した問題ではない。トリックは呪術と同質のものであり、本来的に、呪術師に「ペテン」はありえないのである。呪術師の理論と実際との差は、本性的な違いではなくて程度の問題である。
 第二に、呪術と宗教との関係という激しい議論を呼んだ問題がはっきりする。もしある意味において、宗教とは自然法則の人間化であり、呪術とは人間行動の自然化-ある種の人間行動を自然界の因果性の一部分をなすものであるが如くに取扱う━であると言うことができるなら、呪術と宗教は二者択一の両項でもなければ、一つの発展過程の二段階でもないことになる。自然の擬人化(宗教の成立基礎)と人間の擬自然化(私はこれで呪術を定義する)とは、つねに与えられている二つの分力であって、その配分だけが変化するのである。前に記したごとく、この両者は
それぞれ他方と連立している。呪術のない宗教もなければ、少くとも宗教の種を含まぬ呪術もない。超自然の観念は自ら超自然的な力ありと考え、代りに自然には超人間的な力を想定する人間にしか存在しない。
 未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかと言い当てるオーストラリアの原住民のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらに目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いまあいての車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。この比較はまったくとっぴに見えるけれども、多くのことをわれわれに教えてくれる。われわれの能力が研ぎ澄まされ、近くが鋭敏になり、判断が確実性を増すのは、ひとつには、われわれの持つ手段とわれわれの冒す危険とがエンジンの機械力によって比較にならなうほど増大したためであり、もうひとつには、この力を自分のものとしたという感情から来る緊張方の運転里の一連の対話の中で働いて、自分の気持ちに似た相手の気持ちが記号の形で表されることになり、まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。
このようにわれわれは、人間と世界がお互いに他方の鏡となるという、展望の相互性が機械文明の面に写されているのを再び見出すのである。そしてこの相互展望は、それだけで、野生の思考の属性と能力を教えてくれることができるように思われる。
レヴィ=ストロース著『野生の思考』p263

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