Category Archives: Food

温帯性果樹の二大中心地

A 西部原生種群
(欧州束南部、西アジア、ペルシア)
1 革 果(リンゴ)Malus pumila
2 洋 梨    Pyrus communis
3 甘果桜桃   Prunus avium
4 酸果桜桃   Prunus cerasus
5 欧洲李    Prunus domestica
6 欧洲李    Prunus insititia
7 欧洲栗    Castanea sativa
8 アーモンド  Prunus communis
9 欧洲葡萄   vitis vinifera
10 無花果    Ficus carica
ll メドラー   Mespilus germanica
12楷枠(マルメロ)Cydonia oblonga
13胡桃(クルミ)Jugulans regia
14 石榴(ザクロ)Punica granatum
他に須具利、房須貝利、木苛、榛

B 東部原生種群
中国(朝鮮、日本を含む)
1 中国梨    Pyrus ussuriensis
2 日本梨    Pyrus serotina
3 山桜(サンザシ)Crataegus pinnatifida
4 桃      Prunus persica
5 日本李    Prunus salicina
6 杏(アンズ) Prunus armeniaca
7 梅      Prunus mume
8 甘 栗    Castanea monisima
9 日本栗    Castanea crenata
10 柿    Diospyros kaki
11 東(ナツメ)Zizyphus sativa
12 枇 杷    Eriobotrya japonica
13 柑橘類    Citrus spp.
他にワリンゴ、中国桜桃
菊池秋雄(1948)

この表をみると直ちに明らかになることは、現在の温帯性果物のほとんど全部がこの表の中に含まれていることである。この表がこのような簡単な形にまとまるまでには、多くの植物学者の研究の結果がある。例えばモモは学名はプルヌス・ペルシカとなり、ペルシア原産と初めは考えられていたが、中国原産(険西、甘粛)であることがその後判明した。同じくアンズはプルヌスーアルメニアーカという学名で、アルメニア原産と初めにされたが、それも中国原産であることが判明した。カキはデイオスピロスーカキ(日本語からとった)、ビワはエリオボトリアージヤポニカであるが、両者ともに中国揚子江付近の原産とされている。
 温帯性果樹がこのように、はっきりした二つの群れに分けうるということは何を意味しているのであろうか。西部原生群の果樹は、東欧、西アジアに起源し、西アジア、ギリシア、ローマ、西欧と文明の中心地が変遷しながら、果樹の改良が続けられて、今日のすぐれた品質になったものである。それは全く、西洋文明、西洋文化の発達変遷そのものである。これに対して、東部原生群の果樹は中国文明の中に生まれ、その中で育ち、発展してきたもので、朝鮮、日本までを含んで、それは全く中国文明、中国文化がつくりあげたものである。
 東部原生群と西部原生群の二つのグループの果樹を公平な目で比較してみると、それはだいたいその価値として相等しいとみてよいだろう。このことは果樹に関しては中国文化は独力で、全西欧と匹敵する成果をあげたことを意味することと言えよう。中国文化がこのように、全西欧の文化に対等なものとなっているのは、この果樹についてはきわめてはっきりした事実である。
中尾佐助著『料理の起源』p200

台所道具の一万年

調理器具系統図

山口昌伴著『台所の一万年』より

明治期の台所用品

 在来の台所用具をまとめた貴重な資料がある。題して『ドメスティクージャパン』、内題によると「日本の毎日の生活の品物と使い方の説明」というのである(神奈川県の成毛金次郎が編集発行人である)。全文英語で台所全体をあるがままにスケッチし、さらにそこに置かれている道具を一点一点図示し、名称と使用方法を記している。明治二十八年(一八九五)六月十八日の発行であり在来の台所用具の全貌がわかる。対象はおそらく東京の一般家庭であろうと思われる。つぎにそこに示された道具名をあげる。
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野生の思考

野生の思考を規定するものは、人類がもはやその後は絶えて経験したことの無いほど激しい象徴意欲であり、同時に、全面的に具体性へ向けられた細心の注意力であり、さらに、この二つの態度が実は一つのものだという暗黙の信念であるとするならば、それはまさに野生の思考が、理論的見地からも実際的見地からも、コントがその能力なしとした「継続的関心」に基づくものであるということではないか?人間が観察し、実験し、分類し、推論するのは、勝手な迷信に刺激されてではなく、また偶然の気紛れのせいでもない。文明の諸技術の発見に偶然の作用が一役を演じたものとするのが素朴な考えである事は本書のはじめに見たとおりである。

 もしこれら二つの説明〔迷信と偶然と〕のうちのどちらかを選ばなければならないとすれば、コントの説明〔迷信〕の方がまだましであろう。ただしその説明の基礎にある推論の誤りを除去しなければならない。コントの考えでは知的進化はすべて「神学的哲学のもつ避け難い原初的支配力」に起原がある。すなわち人間が自然現象を解釈するためには、はじめはどうしても、「これに限っては生成の根源的様式を必ず把握できるという自信をもてる現象であるところの、人間自身の行為」と同化して考えざるを得ないのである。しかしながら、同時に逆の手続で、人間が自分自身の行為に自然現象と比べうる力と有効性を考えなかったとしたら、どうして自然現象と人間の行為を同化することができようか?人類が外化して作り上げるこの人間像は、自然の力が前もってその中に内化されていないかぎり、神の雛形とはなり得ない。人間は自然と自己との間に類似性を認めてきた。それにもかかわらず、人間が、自らの欲求にその自然の属性を見ることなしに、自然には人間の意志と同じような意志があるのだと考えたらしい、と思い込んだところに、コントおよびその後継者の大多数の誤りがあった。もし人間が自らの無力感だけから出発したのだとすれば、それはけっして人間に説明の原理を与えはしなかったであろう。
 真実のところ、効率のある実際的活動と有効性のない呪術的儀礼的活動との差異は、世間で考えられているように両者をそれぞれ客観的方向性と主観的方向性とで定義してつかみ得るものではない。それは事がらを外側から見るときには本当らしく見えるかも知れないが、行為主体の立場から見れば関係は逆転する。行為主体にとっては実際活動はその原理において主観的であり、その方向性において遠心的である。その活助は自然界に対する行為主体の干渉に由来するからである。それに対して呪術操作は、宇山の客観的秩序への附加と考えられる。その操作を行う人間にとっては、呪術は自然要因の連鎖と同じ必然性をもつものであり、行為主体は、儀礼という形式の下に、その鎖にただ補助的な輪をつけ加えるだけだと考える。したがって彼は呪術操作を、外側から、あたかも自分かやることではないかのように見ているつもりでいる。
 伝統的な見かたをこのように修正すると、誤った問題を一つ排除することができる。呪術操作において欺陥やトリックに頼るのが「常態」であるということを、ある人々は問題としている。ところが、自然の因果性に対して、それを補ったり流れをかえたりして人間が介入しうるという信仰に呪術の体系が全面的にのっかっているとしたら、その介入の量的多少は大した問題ではない。トリックは呪術と同質のものであり、本来的に、呪術師に「ペテン」はありえないのである。呪術師の理論と実際との差は、本性的な違いではなくて程度の問題である。
 第二に、呪術と宗教との関係という激しい議論を呼んだ問題がはっきりする。もしある意味において、宗教とは自然法則の人間化であり、呪術とは人間行動の自然化-ある種の人間行動を自然界の因果性の一部分をなすものであるが如くに取扱う━であると言うことができるなら、呪術と宗教は二者択一の両項でもなければ、一つの発展過程の二段階でもないことになる。自然の擬人化(宗教の成立基礎)と人間の擬自然化(私はこれで呪術を定義する)とは、つねに与えられている二つの分力であって、その配分だけが変化するのである。前に記したごとく、この両者は
それぞれ他方と連立している。呪術のない宗教もなければ、少くとも宗教の種を含まぬ呪術もない。超自然の観念は自ら超自然的な力ありと考え、代りに自然には超人間的な力を想定する人間にしか存在しない。
 未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかと言い当てるオーストラリアの原住民のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらに目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いまあいての車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。この比較はまったくとっぴに見えるけれども、多くのことをわれわれに教えてくれる。われわれの能力が研ぎ澄まされ、近くが鋭敏になり、判断が確実性を増すのは、ひとつには、われわれの持つ手段とわれわれの冒す危険とがエンジンの機械力によって比較にならなうほど増大したためであり、もうひとつには、この力を自分のものとしたという感情から来る緊張方の運転里の一連の対話の中で働いて、自分の気持ちに似た相手の気持ちが記号の形で表されることになり、まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。
このようにわれわれは、人間と世界がお互いに他方の鏡となるという、展望の相互性が機械文明の面に写されているのを再び見出すのである。そしてこの相互展望は、それだけで、野生の思考の属性と能力を教えてくれることができるように思われる。
レヴィ=ストロース著『野生の思考』p263

自然的存在を社会化する「火」

「火を通される」のは、新生児、産婦、思春期に達した娘など、強度な生理的過程に身をおいている人たちである。社会的集団の一員と自然との結合には、料理の火の介入による媒介が必要である。火は通常は生ものと人間という消費者との結合を媒介する役を果たしており、だから火の働きにより自然的存在が料理され、かつ同時に社会化されるのである。

クロード・レヴィ=ストロース著『生ものと火をとおしたもの』p465

人間条件のすべての属性を定義する料理

見かけは非常に異なるが、短い寿命の起源に関係する神話のいずれもが、同じメッセージを伝えており、相互の違いは使っているコードの違いにしか過ぎない。第二に、それらのコードは同じタイプであって、感覚的な質の対立を利用しており、感覚的な質に真の意味での論理的存在が付与されている。第三に、人間には五感があるので、基本的なコードの数は五である。五つのコードが示しているのは、全ての経験的可能性が体系的に数え上げられ、利用されているということである。第四に、これらのコードのうち一つが特権的な位置を占めている。それは食物の食べ方に関する-したがって味覚の-コードである。他のコードが味覚のコードのメッセージを翻訳することの方が、味覚のコードのメッセージを翻訳するよりは多い。というのは、火つまり料理の起源の神話が、短い寿命の起源の神話への入り口になっているからであって、アピナイェでは、短い寿命の起源は火の起源の神話の中のエピソードにしか過ぎないからである。このようにしてわたしは、先住民の哲学において料理が占める真に本質的な場を理解し始めた。料理は自然から文化への移行を示すのみならず、料理により料理を通して、人間の条件がその全ての属性を含めて定義されており、議論の余地なく最も自然であると思われる-死ぬことのような-属性ですらそこに含められているのである。

クロード・レヴィ=ストロース著『生のものと火をとおしたもの』p238

生ものと火を通したもの。新鮮なものと腐ったもの。

これらが証明しているのは、火の起源に関するジェの神話は、同じテーマを持つトゥピ=グアラニの神話と同様に、二重の対立を使っているということである。それは生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったものである。生ものと火を通したものを結ぶ軸は、文化の特徴を示し、生ものと腐ったものを結ぶ軸は、自然の特徴を示している。加熱調理は生ものの文化的変形であり、腐敗は生ものの自然的変形である。
このようにして復元した集合全体のなかで、トゥピ=グアラニの神話はジェの神話よりやり方が徹底的である。トゥピ=グアラニの思考法にとっての関与的対立は、加熱調理(その秘密をコンドルが握っている)と腐敗(これがコンドルの今日の食性である)である。ジェにとっての関与的対立は、食物の加熱とジャガーが今日行っているように食物を生で食べることである。
ボロロの神話は、これらの二つの様式のいずれかを選ぶことの、拒否あるいは不可能を表現しているようである。
クロード・レヴィ=ストロース著『生ものと火を通したもの』p210

産業革命と「イギリス風朝食」

たとえば、都市の下層民衆の住環境はトイレがなかったことはもちろん、しっかりした調理をする施設(台所)すらなかった。無料で採取できる燃料もなかったから、短時間で朝食を準備することは不可能となった。石炭に火をつけるのも一苦労で、まして、自宅でパンを焼くなどということは問題外であった。

しかも、都市住民の多くは工場で働くようになった。工場労働が農村での農民や職人の生活大きく異なっていたことのひとつは、時間の規律が厳しくなったことである。これまで、職人の間では、「聖月曜日」とよばれるルースな時間の使い方が慣行として認められていた。週末に「週給」を受け取った職人は飲んだくれるため、日曜だけではなく、月曜も仕事には出てこなくてよいというのが、「聖月曜日」である。

しかし、工場制度が普及し、機械を効率的に利用しなければならないようになると、このような時間にルースな生活は認められなくなった。工場労働者は、「晴耕雨読」というわけにはいかず、機械時計の刻む時間に従って、動くことを求められたのである。いいかえれば、労働者はサイレンが、鳴るまでに工場に入り、次のサイレンが鳴り終わるまで、休みなく働くことを要求されたのである。

さらに、工業化と都市化の結果、これまでの家内工業と違って、労働者の家庭では、その構成員のほとんどが家庭外で雇用されるようになった。この点でも工業化によって民衆は長時間を要する調理の可能性を失った。じっさい、この時代の下層民の生活について詳しいルポタージュを残したヘンリ・メイヒューによれば、ロンドンの街路には、ありとあらゆる種類の屋台の簡易飲食屋が開業していたことがわかる。

問題は、これから一日の厳しい労働に従事する人たちの朝食だから、「イギリス風朝食」は「重い」つまり、カロリーの多いものでなければならなかった。しかも、労働者たちが酔っ払ってしまうようなものでは困るし、直ちに元気になるものでなければならなかった。
こようのな多様な条件に見事に合致したのが、紅茶と砂糖と店で買うパンなどからなる「イギリス風朝食」である。

<中略>

「イギリス風朝食」は労働者のものだから、何よりも安上がりでなければならなかった。この点でも、砂糖入り紅茶は合格だったのである。というのは、同時代の歴史家デイヴィド・マクファソンによれば、「要するに我々イギリス人は、商業上も金融上でも、きわめて有利な位置にいるために、世界の東の端から持ち込まれた茶に、「西の端の」西インド諸島からもたらされた砂糖を入れて飲むとしても、(輸送のための船賃や保険料もかかるのだが)、国内産のビールより安上がり」だったからである。
マクファソンのいうとおり、「ティーコンプレックス」は、イギリスの中心としてみると地球の東西の両端に位置する地域、つまり世界システムの二つの周辺から来た素材によって成り立っている。いいかえればイギリスが世界システムの「中核」の位置を占めることになったからこそ、このようなことが可能になったのである。

(川北稔編『知の教科書ウォーラーステイン』p90-92)

ローマ時代の生活

シーザーの『ガリア戦記』を読むと、当時の兵隊や、庶民の生活ぶりを知ることも出来ます。
この頃の家族単位は、ちょうど日本の封建時代と同じで、家長が中心となって構成されていました。そして家の真ん中に台所を作って食事をします。どういうものを食べるかと言うと、アピキュウスのような金持ちのための料理とは違います。鍋があって、水を入れてて早く湯を沸かそうと思ったら、中に焼けた石を入れる。その中に、肉類魚介、取れたものならほとんどどんな種類でも、要するに肉類と、引っこ抜いてきた野菜全部を放り込んで、ただ煮て食べたんです。香辛料を使うと言うことはなく、一般の人たちは塩とガルムしか使わなかったようです。
フランスの中世料理に鍋に何もかも入れて、ごたごた煮て食べるガリマフレがありますが、それと似たもので、一般の人たちはほとんどこればかりを食べていました。
現在のフランス人でもよく似たもので、ポ・ト・フーだってそうでしょう。そして、そのごった煮を入れる器もなかったんです。いまでもスイスの田舎に行くと、その表面に溝のようなものを掘った木の厚いテーブルがあります。そのようなテーブルの中に、煮たものを入れて、直接そこから食べ、食べ終わったら水をぶっ掛けて洗う。こんなものを考案した人たちは、明らかに権力を握られない人たちでしょう。
権力者や金持ちは、スープ皿はなかったけれど、大きなスプーン(レードル)をまわしながらの飲んでいました。

辻静雄著『フランス料理の学び方』p64

古代文明誕生の契機としての気候変動

1980年以来、私はギリシア、トルコ、シリア各地の花粉分析の調査研究に従事してきた。ギリシアやトルコ、シリア各地の湿原にボーリングを行い、堆積物を採取し、その中に含まれている花粉の化石を分析する根気の要る作業を続けてきた。その結果、一つの重大な発見があった。それは古代文明が誕生した5700年-4500年前は、地球上の中では特筆すべき気候変動期に相当していたと言うことである。
暦年代7000-5700年前の地球の気候はクライマティック・オプティマム(気候最適期)とよばれる高温期だった。地球の年平均気温は現在より2~3度高かった。このため極地の氷河も溶け、海面も上昇して、当時の日本列島では縄文海進によって、関東平野や濃尾平野などの沖積平野の大半は海底に没していた。
ところがこの高温期は5700年前に終わり、気候は急速に寒冷化する。この気候の寒冷化によって、北緯35度以南の北半球の温帯~亜熱帯の地方は、乾燥化が進行した。この気候の乾燥化によって、大河のほとりに人々が水を求めて集中した。もともと大河のほとりにには農耕民が生活していた。気候の乾燥化によって大河のほとりに水を求めて集まってきた人々は、牧畜を生業の主体とする人々であった。なぜなら牧畜民は農耕民よりも乾燥したところで生活していたために、この気候の乾燥化の影響を最も強く受けたからである。
この気候の乾燥化を契機として大河のほとりに人口が集中し、牧畜民と農耕民の文化の融合がきっかけとなって古代文明が誕生したのではないかと言う仮説を私は提示したのである。事実、ナイルのほとりでは、乾燥化によってナイルの川の水位が低下する時代にピラミッドの建造が始まっている。ピラミッドの建造は、気候の乾燥化によって大河のほとりに集中してきた余剰労働力を消化するために始まったのではないかというのが、私の仮説でもある。大河のほとりへの人口の集中は余剰労働力の提供のみではなく、情報量を増大させ、牧畜民と農耕民の文化の融合は新たな技術革新や社会や生活様式の多様化をもたらす。これが古代文明誕生の第一歩であったと私はみなしたのである。したがって、5700~4500年前の気候変動期において、類似した気候の寒冷化と乾燥化が進行した北緯35度以南の大河の中・下流域では、多元的にどこでも文明誕生の契機があったはずであるというのが私の古代文明誕生多元説なのである。

安田喜憲著『大河文明の誕生』p25

フランス料理とその外延

これまで主に食材やその調理の仕方、そのサーヴィスのあり方を中心にフランス料理を見てきたが、これだけではフランス料理は完成しない。料理人たちの人間関係や、料理人と彼らの雇い主との関係、さらには、より大事な要素として、誰に食べてもらうかという問題もある。王侯貴族が臣下や友人、国内外のお客に食べてもらうこともあるし、一般人が家庭に客を招待して、自ら又は雇った料理人に作らせてもてなす場合もある。あるいは、レストランで金を支払って料理とサーヴィスを提供してもらうこともある。
これらの人間関係の外側には、料理人に食材を供給する流通網、食器つくりとその供給者、インテリア関係者など、幾重もの社会関係が広がっている。フランス料理を徹底的に理解するにはそこまで読み込まなければならないが、それは容易なことではない。といっても、フランス料理は目配りを出来るだけ広げようとしている料理であり、この目配り=心配りということは、千利休以来のお茶席や会席料理の伝統を持つ日本人には理解しやすいはずである。

湯浅赳男著『フランス料理を料理する』p153

オーブンと蒸籠

食物の加熱方法は多様だが、料理として洗練されていく過程で一つの加熱方法が特に重要な役割を果たしてゆくようになることから、料理史のタイプを分類するときそれが最も重要な要素であると私は考えている。
すなわち、ユーラシア大陸の西側ではオーブン=パン焼き用窯であり、東アジアでは、コシキ=蒸篭となる違いである。
人類が食物の加熱することを知ったときの方法はまず直火焼き(グリル)、次に熱灰や熱した土に埋めて焼く、容器が生まれると焼き石を入れて水を沸騰させてモノを煮るといったものだったろう。
東アジアでも西アジアでも、穀物はまず水で煮られることになる。東では、アワ、キビ(後には米)など雑穀が煮られ、西でも麦が水にされ、要するにカユとして食べられたのである。共通しているのはここまでで、これから東西は違った料理法を発達させることになる。なぜなら、初期の焼き物は土臭くて食物の味を損なったから、別の方法が求められたのであって、それが西ではパン焼き窯、東ではコシキ=蒸籠だったのである。なお、麦をいって粉にして食べる方法もある。
なぜこのようになったのか。まず東側の雑穀は夏物の作物で、脱穀して、さらに麦芽をそのままとりだすことができ、それをカユにしてもよいが、土気を嫌うので、土器で水を沸騰させ、その蒸気で穀物を蒸して食べることになった。その道具がコシキである。
西側の麦は冬作の作物で、脱穀して、麦芽を取り出そうとすると砕けて粉々になってしまうのでこれを粉にして水で練って、窯を作って間接熱で焼くという方法がとられた。パンの誕生である。

湯浅赳男著『フランス料理を料理する』p59

持続可能な食料としての米と魚

安田 牛肉1トンをつくるのに小麦が12トン必要という話が出ましたが、1トンの小麦を作るのに、だいたい1000トンの水がいる。つまり1トンの肉に1万2000トンの水がいるわけですね。地球の水資源を考えると、中国の13億人の人間が今の日本人並の肉を食える水資源はないのです。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p213

石 21世紀は、世界のどこが一番発展するかというと、僕は亜熱帯モンスーン地域だと思っています。その理由は、水という制約条件が非常に低いからです。同地域は年間の降水量が基本的に多いので、コントロールさえすれば水に困らないわけですよ。

安田 でも、乾季があるでしょう。

石 だから水を溜めておくシステムが必要なんです。
それともう一つは、安田さんが言うように米と魚ですよね。米は最も持続的な農業であり、魚は最も持続的なタンパクの供給源です。「持続性」の文化の中に内在させてきたのは、やはり亜熱帯モンスーン地域しかない。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p220

自給自足の本 完全版 [単行本]

自給自足のためのマニュアル本。
土地や海が汚染され、安全な食料を手に入れずらくなりはじめた。
今後、安全な食料を手に入れるためには、信頼の置ける場所から調達する必要がある。そのもっともシンプルな生活方法が、自給自足である。

AとBの起源-牛と家

現在の「A」はセム語の「アレフ」、つまり牛からきており、セム人はヒエログリフの「牛の頭」にあたる文字をあてました。同様に「B」は、「ベート」つまり「家」で、ヒエログリフの「家」に当たる文字をあてました。アルファベットはこの最初の二文字をを合わせた言葉です。これら原シナイ文字アルファベットは、フェニキア文字に発展し、ギリシャ文字やラテン文字、そして現在のアルファベットへと発展したのです。一方フェニキア文字はアラム文字となり、アラビア文字、インド、チベット、満州文字へと発展し、朝鮮のハングル文字にまでその影響が及んでいるということです。(吉島重朝著『印刷よもやま話』P8)

生活の基礎として「衣食住」といわれますが、食に関わる牛と住に関わる家は、アルファベットの最初の二文字、AとBの起源にもなっているらしい。

地方で聞いた耳より情報2

山のハム工房ゴーバルこれもまた、お正月に実家に帰省した際に聞いた話ですが、上記のハム工房を運営されている方々は、自給自足に近い生活をされているらしい。もちろん、リンク先のHPの通り、肉の加工品で、お金をある程度稼いでいらっしゃいますし、かなり立派なHPやブログなどを運営されているわけですから、そのお金でパソコンやそれを動かす電気などのエネルギーや田舎では移動手段として必需品である車なども手に入れていらっしゃるはずです。その意味では、完全な自給自足というより、かなり収入が少なくても生活を成り立たせているという意味に捉えるべきでしょうが、前回のエントリー「地方で聞いた耳より情報1」でも書いたとおり、地方の山あいだと、かなり安く家や土地が手に入れられるようですし、収入がそれほどなくても生活を成り立たせることができるのでしょう。 Read more »

桃花村の農産物

桃花村農産物農事組合法人桃花村遅くなりましたが、先日のブレスパッセージで買った田中泯がなさっている桃花村で作ったトマトと番茶(極上)の写真です。価格は、それぞれ以下の通り。 Read more »

銀座新潟塾

糀メニュー
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