イギリスを覇権国に導いた条件

イギリスの経緯はより単純だった。イギリスには一つの中心、15世紀になって速やかに経済と政治の中心となったロンドンしか存在しなかった。ロンドンは、同時に、イギリス市場をロンドンの便宜に、それゆえ、その地の大商人の便宜に合わせる形で作り上げていった。
他方、島国であったおかげで、イギリスは独立性を保ち、外国資本主義の干渉から逃れることが出来た。1558年のトーマス・グレシャムによるロンドン取引所の開設は、アンヴェルスにとって青天の霹靂であったし、1597年のスタールホッフの閉鎖によるそれまでの「客」への特権の廃止は、ハンザ同盟の諸都市に、有無をいわせぬものだった。1651年の最初の航海条例は、アムステルダムを驚かせた
この時代、ヨーロッパの交易のほとんどはアムステルダムに牛耳られていたのだが、イギリスは、それに対抗しえる手段を持っていたのだ。オランダの帆船は、風向きの関係で、つねにイギリスの港への寄港を余儀なくされていたからである。オランダが、他の国に対して絶対に認めなかった保護貿易主義的な措置を、イギリスに認めたのは、おそらくそのためであったに違いない。いずれにしても、イギリスはこうして、その国民市場を守り、そして、ヨーロッパの他のどの国にもまして、新興産業を育成することが出来たのである。イギリスのフランスに対する勝利は、遅々としたものだったが、かなり早い時に(私見では、1713年のユトレヒト条約の時点)に始まり、1786年(イーデン条約)にはまぎれもないものとなり、そして、1815年に最終的な決着を迎えたのだった。

フェルナン・ブローデル著『歴史入門』p127

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