Category Archives: Energy

埋立地の最前線

若洲15号地付近

若洲
1965年11月 – 東京湾埋立15号地として埋立開始。
1974年5月 – 埋立終了。
1990年 – 若洲海浜公園が開園し、ゴルフ場やキャンプ場などの施設群が完成。

中央防波堤付近

埋立地の地図

石川雄一郎著『さまよえる埋立地』より

夢の島2100イメージスケッチ1

報道番組 ニュースゼロ<ゴミ問題 埋立廃棄物>

東京のゴミ埋立処分場が残り少なくてヤバイ件【夢の島の今昔】

物質循環の要である土

 植物や動物あるいは人間の死体や排泄物や分解物は、土の中や地表に住んでいる微生物によって分解され、土に育つ植物によって吸収されて生命の流れの大サイクルの中にはいってくるから、土の世話にならずに生存できるものはほとんどないといえる。
 日光エネルギーによって空中高く育ちゆく樹木も、野に花咲く野草類も、いつか葉が落ち、からだごと枯死し死体となって土にはいってゆくし、これらの植物の間で生活していた虫類は野鳥に食われる。野草を食べていたウサギは排泄物を土中に与える。
 動植物の死体や排泄物は、土中で微生物の栄養になったり、分解されて植物の養分として吸収されてゆく。土こそは物質循環のお世話役なのである。作物を栽培する耕地もまた、これらの循環のうえに、堆肥や化学肥料の施用、耕耘などが人工的に加わったより複雑な循環系である。

前田正男/松尾嘉郎共著『土壌の基礎知識』p16

イギリスを覇権国に導いた条件

イギリスの経緯はより単純だった。イギリスには一つの中心、15世紀になって速やかに経済と政治の中心となったロンドンしか存在しなかった。ロンドンは、同時に、イギリス市場をロンドンの便宜に、それゆえ、その地の大商人の便宜に合わせる形で作り上げていった。
他方、島国であったおかげで、イギリスは独立性を保ち、外国資本主義の干渉から逃れることが出来た。1558年のトーマス・グレシャムによるロンドン取引所の開設は、アンヴェルスにとって青天の霹靂であったし、1597年のスタールホッフの閉鎖によるそれまでの「客」への特権の廃止は、ハンザ同盟の諸都市に、有無をいわせぬものだった。1651年の最初の航海条例は、アムステルダムを驚かせた
この時代、ヨーロッパの交易のほとんどはアムステルダムに牛耳られていたのだが、イギリスは、それに対抗しえる手段を持っていたのだ。オランダの帆船は、風向きの関係で、つねにイギリスの港への寄港を余儀なくされていたからである。オランダが、他の国に対して絶対に認めなかった保護貿易主義的な措置を、イギリスに認めたのは、おそらくそのためであったに違いない。いずれにしても、イギリスはこうして、その国民市場を守り、そして、ヨーロッパの他のどの国にもまして、新興産業を育成することが出来たのである。イギリスのフランスに対する勝利は、遅々としたものだったが、かなり早い時に(私見では、1713年のユトレヒト条約の時点)に始まり、1786年(イーデン条約)にはまぎれもないものとなり、そして、1815年に最終的な決着を迎えたのだった。

フェルナン・ブローデル著『歴史入門』p127

自給型小農複合経営のモデル

自給型小農複合経営のモデル
玉野井芳郎・坂本慶一・中村尚司編『いのちと”農”の論理』p120

土の中の水

土のなかの水の状態には、大きく分けて、地下水、毛管水、懸垂水の三種類がある。一番下にあるのが、水を通さない岩または粘土。その上に地下水(隙間の全部に水が置き換わったものである)。その上が、毛管水である。毛管水は、細い隙間に沿って地下水と繋がっている。しかし、太い隙間には空気が入っている。毛管水は、砂地で約30センチぐらい、腐植の多い土では約3メートルぐらいになる。
毛管水の上の土に、もしも水分がなければ、植物は育たない。特に、地下水の深いところでは、毛管水も深いところにある。ところが、土の中には水は、重力で下方に引っ張られて入るけれども、腐食との親和力で、小さな隙間にぶら下がってい存在することも出来る。これを懸垂水という。この水があるために、地下水が深くても土に水気が残り、植物が育つのである。
土のなかの水の流れは、水循環にとって大切な働きをする。もしも、土に一切の保水力なかったら、地上に降った雨は直ちに海へ流れ去ってしまう。雨の直後の洪水であり、晴れが続けば陸には水がなくなってしまう。
しかし、水に保水力があるから、懸垂水、毛管水、地下水として蓄えられ、重力で徐々に下方に流れ、ある場合は湧き水として地王の姿を現し、川となって、海へ流れる。土の保水力が大きければ、少々の雨で洪水になることはない、したがって、いつも同じ水量で川の水が流れることになる。
ところで、土の中の水の流れは上から下に向かうだけではない、下から上へ流れる水もある。蒸発と蒸散である。地下水や毛管水や懸垂水は、地表から絶え間なく蒸発し、地表の熱エントロピーを処分している。厚いときは蒸発量が多く、寒いときは少ないので、地表の温度調節にも役立っている。世界中で平均すれば、陸地に降った雨や雪のうち、約60%は陸地で蒸発し、再び雨の原料になっている。海へ流れていくのは約40%である。
槌田敦著『エントロピーとエコロジー』p78

生態系の物質循環模式

宮脇昭著『植物と人間』p33

日本文化の多重構造

第一の画期は、今から約12000年前の縄文文化の成立の時期である。氷河期時代が終わり、気候が少しづつ温暖化してくる中で、日本列島で始めて土器や弓矢が出現し、竪穴式住居が営まれるようになって、旧石器時代に比べて定住性の高い新しい生活様式が生まれてきた。いわゆる縄文文化の誕生である。
この縄文文化は、その文化の特徴-たとえば深鉢型土器、竪穴式住居、弓矢による狩猟、サケマスの河川漁撈の卓越など-、あるいはその文化が東日本のナラ林体に集中することなどの実態から見て、東北アジアの落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)の食料狩猟民の文化と文化生態学的な基盤を共通にして形成されたものと考えられる。
次に第二の画期は、縄文時代前~中期頃に、照葉樹林文化の要素が日本列島の西部に進出してきた時期に求められる。気候の温暖化に伴い、まず採集段階の照葉樹林文化が大陸から伝来してくる。縄文時代前期の鳥浜貝塚から真っ赤な漆塗りの櫛が出土したのをはじめ、漆の利用は各地に広まり、縄文時代後・晩期には精緻な漆芸品が各地で産み出されるようになる。このほか、大陸の照葉樹林帯から導入されたと考えられるヒョウタンやエゴマや豆類などの小規模な栽培や、野生のサトイモや彼岸花の半栽培などが始められたものこの縄文時代前~中期頃からであり最近では栽培稲の痕跡も発見されて始めている。
さらに縄文時代の後・晩期には、焼畑段階の典型的な照葉樹林文化が伝来し、西日本の地域に展開したと考えられる。作物や焼畑雑草炭化種子、イネ科の作物のプラントオパールや花粉の分析などにより、最近ではそのことが次第に明らかになってきた。それとともに照葉樹林文化を構成する文化的な諸特色-っとえば漆芸や絹や竹細工、茶や麹酒mナットウやモチ性食品、儀礼的狩猟や歌垣や山上他界の習俗、山の神の観念や昔話など-多くが日本列島に渡来してきたと考えられる。それらの大部分が現代にまで伝承され、日本の伝統文化の中に深く根を下ろしていることはよく知られるとおりである。
第三の画期は、縄文時代の末あるいは弥生時代の初めに水田稲作農耕とその文化が日本列島に渡来した時期である。この時期には寒冷適応した長身。面長のいわゆる北アジア系の人たちが渡来し、朝鮮半島から水田稲策という新しい農耕技術や金属器文化、およびそれに伴う新たな文化的な価値体系が伝えられた。小国家を産み出すような宗教的・政治的統合原理をはじめ、稲作に伴う儀礼の体系や新しい信仰や世界観などが、このとき伝えられたようである。その後の日本文化の原型を形成したといわれる弥生文化は、土着の縄文文化の上にこうして新しい文化的要素が加わって成立したものと考えられる。そのほか、長江下流域や江南地方からも直接日本列島に伝えられた文化の流れがあり、また琉球列島を種とする南島の島々を伝わって北上してきた文化の流れのあったことも見落としてはならない。
なお、第二の画期のころからこの時期にかけて、北東アジアのナラ林帯から、サハリン・北海道ルートや日本海横断ルートあるいは朝鮮半島を経由するルートなどを経て、北方系の作物群(北方系のアワ・キビやW型のオオムギ、ゆう麦型のエンバク、洋種系のカブなどのほか、アブラナ類やゴボウやアサその他)で特徴付けられる畑作文化、つまり農耕段階のナラ林文化が日本列島に渡来したことも指摘しておかねばならない。
このようなプロセスを経て日本列島における基層文化が形成されてきたが、最後に四~五世紀頃の巨大古墳が形成される時期に、主として朝鮮半島から支配者文化のいくつかの重要な特色の伝来が見られた。私はこの時期を第四の画期としているが巨大古墳の築造に見られる強力な政治的権力の出現や「天孫降臨」神話をはじめ、多くの「記紀」神話に象徴される支配のイデオロギー、そのほ日本列島における支配者文化のいくつかの特色が、この時期に主として朝鮮半島から取り入れられたと考えられる。

佐々木高明著『照葉樹林文化とは何か』p177

「海の牧畜民」による支配としての植民地

安田 僕はインド・ヨーロッパ語族の爆発的な拡大を考えたときに、「海の牧畜民」という言葉を使おうと思っています。つまり、かつて漁撈民は巨大な海を支配して交易をしていても、必ずしも植民地的な支配はやらなかった。ところが、ヨーロッパから出かけていったインド・ヨーロッパ語族の人々はアメリカやオーストラリア大陸を植民地にし、さらにアジアにもかなりの植民地を持ちました。そうした思想の原点がどこにあるかというと、結局インドヨーロッパ語族が牧畜民の文化をずっと持っていたところに行き着くわけです。牧畜民は、移動することによって新しい植民地をつくっていく。
ギリシャもインド・ヨーロッパ語族が拡大し、文明を作った国家ですが、彼らはやはり巨大な仕組みを地中海世界に作り始める。なぜギリシャ文明があのように大量の植民都市をつくったというと、もともと牧畜民であったインド・ヨーロッパ語族の一派であるドーリア人がやってきて、彼らが森の中で船を作る技術をマスターし、海へ出たからだと思います。
陸上の牧畜民の子孫が、海の先に作ったのが植民地だった。漁撈民は昔から海に接して海洋を自由に動き回っていても、決して巨大な植民地を作らなかったわけです。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p192

持続可能な食料としての米と魚

安田 牛肉1トンをつくるのに小麦が12トン必要という話が出ましたが、1トンの小麦を作るのに、だいたい1000トンの水がいる。つまり1トンの肉に1万2000トンの水がいるわけですね。地球の水資源を考えると、中国の13億人の人間が今の日本人並の肉を食える水資源はないのです。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p213

石 21世紀は、世界のどこが一番発展するかというと、僕は亜熱帯モンスーン地域だと思っています。その理由は、水という制約条件が非常に低いからです。同地域は年間の降水量が基本的に多いので、コントロールさえすれば水に困らないわけですよ。

安田 でも、乾季があるでしょう。

石 だから水を溜めておくシステムが必要なんです。
それともう一つは、安田さんが言うように米と魚ですよね。米は最も持続的な農業であり、魚は最も持続的なタンパクの供給源です。「持続性」の文化の中に内在させてきたのは、やはり亜熱帯モンスーン地域しかない。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p220

人類のカタストロフィー

石 今のままいけば、かなり近い将来にカタストロフィーがあると思います。最近の例で言えば、1960年前後に自然災害の政策の失態が重なって中国で2600万人が餓死したといわれています。わずか40年前の話ですよ。その後中国人は一時的に悔い改めたと思いますがまた元も戻ってしまった。
環境史の教訓というのは、人間が自分から進んで環境を良くしたことはなかったということです。

湯浅 破局がなければですね。

石 たとえばペストが大流行したヨーロッパでは、人口が激減したために森林がが急速に回復しました。人類は大きな破局に直面して初めて悔い改めることになった。しかし、やがて忘れてしまう。現代のようにこれだけ楽しい情報が溢れて欲望を毎日毎日くすぐられていては、「悔い改めなさい」といっても、それは無理でしょ。

安田 今われわれが問題にしているのは実際の環境革命ではなく、環境革命に至る前、出来るだけ今の状態を引き伸ばすのにはどうしたらいいかという延命策で言っているわけです。カタストロフィーが解決策なら、早くカタストロフィーを起こしたら言い訳ですが、それでは困るわけです。

湯浅 その場合は人類は全滅しますね。

安田 いや、人類が全滅することはないですよ。

湯浅 大惨事が起こらないために、破局をくぐりぬけるだけの準備がいる。

石 やはり、過去500年のヨーロッパ社会が世界に幻想を振りまいた「進歩」という概念が問題になります。現在60億人を超えた世界の民が、今日より明日、明日より明後日をよくするためにがんばっている。おそらく200年前の世界では、そんなことを思っていた人は少なかったはずです。ところが、今は発展が無条件に義務付けられている。

湯浅 今やらねばならないことは人類史の総括だと思います。とりわけ産業革命以後の総括と、ここ500年の近代の総括だと思います。

安田 僕が今、思っているのは、スローダウンして軟着陸するしかないということです。

石 大賛成ですね。先程も安田さんが言われたとおり、500万年の人類の様々な積み重ねを総括しないと将来は見えてこない。そこに環境史の意味があるのでは。将来は破局しかないのかもしれないし、すこしでも破局を先延ばしに出来るのかもしれない。少なくとも過去に学ばないものには将来はないわけです。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p261

電力自由化と原子力発電

1990年代には構造改革を求めるアメリカの圧力や、バブル崩壊後の経済財政再建を目指す歴代政権の意志などを背景として、自由主義改革の波が押し寄せた。この自由主義改革の気運は、電気事業を所轄する通産省から見てコントロールできない外圧であり、それを拒否すると言う選択肢はなかった。そのため通産省は、今までの濃密な業界指導・支援政策を流動化させる兆しを見せ、電力自由化政策を推進していく方針を掲げた。
しかしそれは電力消費の頭打ちに直面していた電力業界に多大な不安を与えた。最大の懸念の一つのなったのが、原子力発電の高い経営リスクであり、その低減のために原子力発電事業のリストラを進めようとする動きが始まった。具体的なリストラの対象となりうる事業は、以下のようなものであった。

(1)商業発電用原子炉の新増設の中止または凍結:既設の原子炉の燃料費は、火力発電よりもはるかに安価なので、巨額の初期投資をして建設した以上は、出来るだけ長期間運転を続けたほうが有利であるが、新増設の経営リスクはきわめて高い。既設原子炉のリプレース時に、原子力発電から火力発電への転換を行うことが合理的である。また計画中・建設準備中の原子炉の建設中止・凍結を進めることも合理的である。とくに長期間にわたり地元の反対により膠着状態にある計画については白紙撤回が妥当である。

(2)核燃料再処理工場の建設中止または凍結:核燃料サイクルのバックエンド(使用済み核燃料の貯蔵保管や廃棄物処理等)を整備することは、いかなる路線を選ぶにせよ、避けて通れない課題であるが、再処理路線を放棄すれば、電力業界は再処理工場の莫大な建設費・運転費を支払わずにすみ、バックエンドを大きく減額することが出来る。さらに再処理事業の不振に伴う巨額の追加コストの発生リスクを逃れることが出来る。

(3)国策協力ですすめてきた諸事業の中止または凍結:新型転換炉、ウラン濃縮、高速増殖炉などの開発プロジェクトはもともと、科学技術庁系統の開発プロジェクトへの国策協力として進めてきたものであり、電力業界にとっては交際費に相当する。財務上の余裕がなくなれば切り詰めるべき性質のコストである(これらのうち新型転換炉開発は実際に、電力業界の撤退表明により、1995年に中止された)。

吉岡斉著『新版 原子力の社会史』p39

非可逆的時間の世界を捨象する<狭義の経済学>

こうして市場経済の自律的社会では、生産は消費を前提し、消費はまた生産を前提する。経済事象はすべて繰り返すものとなっている。もっぱら商品形態を通して可逆性の世界である。市場経済に登場する人間は、つねに可逆的時間の中でビジネスを処理する仕組みとなっている。近代経済学を代表する新古典派理論においても、市場を中心に経済取引が、週単位で毎週繰り返すものと想定されているのは、当然のことである。資本の回転循環の世界に他ならない。<狭義の経済学>は、商品経済又は市場経済の対象とすることによって、実は非可逆的時間の世界を捨象している。だがこのことによって理論体系の完結性が保証されるものになっているといってもよいのである。

玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』p22

岩村城跡

岩村城(wikipedhia)
岩村城の戦い(wikipedhia)

信州の伊那谷から濃尾平野への経路に位置する。
そのため、戦国時代には、軍事的な要所であったと思われる。
織田信長と武田信玄によるこの地を巡る攻防についての歴史や岩村城跡の大規模な石積みは、そのことを現在に伝えている。

一方、江戸幕府は、中山道を通すにあたって、岩村から伊那谷に抜けるルートではなく、通路としてより険しいはずの木曽川にそって木曽谷を抜けて諏訪に至るルートを採用している。
このことは、江戸幕府が木曽川の重要性を理解していたからであろう。


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筏と丸太

山で切り倒され玉切りにされた木材は、シュラや木馬によって谷川まで出され、一本ずつ流す。水量の少ないところでは材木で堰を作り水をため、その水を落とす勢いで流す。これを小谷狩りという。本流に入ると水量も多くなるから堰は作らずに流す川狩になる。小谷狩・川狩は主に秋の仕事であった。木曽川本流では錦織に綱場があり、川狩によってここまで流された材木は、ここで筏に組まれ、熱田にある白鳥の著木場まで送られ、ここから船で江戸や大阪に運ばれた。

宮本常一『川の道』p156

武田邦彦「アメリカのエネルギーと国家戦略」

アメリカのエネルギーと国家戦略(音声ファイル)

大和時代の交通

四-五世紀の段階では、国内的には、交通はまだ部族勢力の圏内に限られるが、しかし、部族間には、戦斗や政治交渉・連絡などによって、時には部隊の、また時には使者の往来がかなり活発に見られたと思われる。

田名網宏著『古代の交通』

大和朝廷の確立した六世紀ともなれば、東北地方を除いてほぼ全土がその支配下に組み込まれ、その過程の中で、時には、「崇神紀」「景行紀」にみえるような、豊城命の東国統治、彦狭島王の東山道15国の都督、御諸別王の東国支配といった、中央皇族の派遣による地方統治の形式によることもあったであろう。それに伴って、中央と地方との交通路も次第に開拓されていったものと思われる。

田名網宏著『古代の交通』