人類のカタストロフィー

石 今のままいけば、かなり近い将来にカタストロフィーがあると思います。最近の例で言えば、1960年前後に自然災害の政策の失態が重なって中国で2600万人が餓死したといわれています。わずか40年前の話ですよ。その後中国人は一時的に悔い改めたと思いますがまた元も戻ってしまった。
環境史の教訓というのは、人間が自分から進んで環境を良くしたことはなかったということです。

湯浅 破局がなければですね。

石 たとえばペストが大流行したヨーロッパでは、人口が激減したために森林がが急速に回復しました。人類は大きな破局に直面して初めて悔い改めることになった。しかし、やがて忘れてしまう。現代のようにこれだけ楽しい情報が溢れて欲望を毎日毎日くすぐられていては、「悔い改めなさい」といっても、それは無理でしょ。

安田 今われわれが問題にしているのは実際の環境革命ではなく、環境革命に至る前、出来るだけ今の状態を引き伸ばすのにはどうしたらいいかという延命策で言っているわけです。カタストロフィーが解決策なら、早くカタストロフィーを起こしたら言い訳ですが、それでは困るわけです。

湯浅 その場合は人類は全滅しますね。

安田 いや、人類が全滅することはないですよ。

湯浅 大惨事が起こらないために、破局をくぐりぬけるだけの準備がいる。

石 やはり、過去500年のヨーロッパ社会が世界に幻想を振りまいた「進歩」という概念が問題になります。現在60億人を超えた世界の民が、今日より明日、明日より明後日をよくするためにがんばっている。おそらく200年前の世界では、そんなことを思っていた人は少なかったはずです。ところが、今は発展が無条件に義務付けられている。

湯浅 今やらねばならないことは人類史の総括だと思います。とりわけ産業革命以後の総括と、ここ500年の近代の総括だと思います。

安田 僕が今、思っているのは、スローダウンして軟着陸するしかないということです。

石 大賛成ですね。先程も安田さんが言われたとおり、500万年の人類の様々な積み重ねを総括しないと将来は見えてこない。そこに環境史の意味があるのでは。将来は破局しかないのかもしれないし、すこしでも破局を先延ばしに出来るのかもしれない。少なくとも過去に学ばないものには将来はないわけです。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p261

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