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Mechanics and Geometry Of bicycle 

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 自転車に働く力と幾何学。

2つのタイヤが地面から受ける反力は、自転車とそれに乗る荷重(人の体重など)の合計に等しく、一定である。

自転車の推進力もこの閉じた力の系の中からしか生まれない。

運動能力と建築

最近、子供の運動能力が低下しているという話をよく耳にすると思いますが、運動能力の低下は子供だけではなく大人も一緒です。しかもそれはハッキリしています。それは正座をしなくなったことと、トイレが和式ではなくなったことです。僕達の世代を含めて足首の硬い日本人が本当に多くなりました。これは生活習慣が変わったことに起因しているのは間違いないでしょう。」(堂城賢著『自転車の教科書』P84)

「自転車では、足首の硬さが如実にフォームや動作の素早さに影響します。足首が硬いと後傾になってしまうわけですから。ほかにも足首が硬いと衝撃を吸収する動作自体ができないし、「ペダリング」にも多大な影響が出るのです。足首を柔らかくすることは運動能力を上げることに繋がるのです。」(同書P87)

パソコン作業中の姿勢

「近くを見続けるパソコン作業は、ピントを合わせるのに重要な役割をする毛様体筋の緊張が続くため、ピント調整つ能力を低下させます。
それだけでなく、パソコン作業中は、まばたきの回数が極端に減ります。
まばたきには実は重要な意味があり、まばたきをすることで角膜が涙で潤い傷や障害から守られているのです。
そのため、まばたきを回数が減ると、ドライアイになりやすくなります。
ドライアイになって涙の分泌量が慢性的に減ると、感染症にかかりやすくなり、視力の低下もまねきます。
こういった状態を防ぐために重要なのはパソコン作業中の姿勢です。

まず大事なのが机と椅子の高さ。パソコンを打つとき、ひじが90度以上に保てる高さだと肩や肘、手首に負担がかかりません。
椅子はう座った時に、足首、ひざ、股関節が90度になる高さにし、深く腰掛けて背筋を伸ばしましょう。足がつかないなら台などを置いて調節してください。

また、パソコン画面はやや見下ろすような位置に来るように設定するのがベスト。見上げるのような高さに画面があると、目の開いている部分の面積が増え、涙が蒸発しやすくなって、ドライアイを招くためです。
目と画面の間は、40-50cmほど離すのがお勧めです。」
(本部千博著『自分で目をよくする本』p124)

人間の定義としての坐ること

 「人間」であるという定義にはいくつもある、その一つが人間以外の動物との比較でみる身体的、機能的な違いである。それは「人間が二本の足で直立しし歩くことが出来るようになったこと、そのために手で体を支える必要がなくなり、同時に両手を自由に使えることで道具を作り、火の作り方を覚え、火を使うようになった。それに脳の発達は、言葉を用い、それによってコミュニケーションを得て人間社会を作る]という見方である。
それだけだろうか。
 人間は「二本の足で歩くことが特徴である」と言われているが、それだけではないようである、「立つ」ことよりも「坐る」ことによって、足を休め、手をより自由に上手こ使えるようになったことも今日の文化を生み出した要因ではなかろうか。
「坐る」ことがなければ、今日の文明の発展はみられなかったといっても過言ではありますまい。人間が「坐る」ことを獲得したことは、「立つ」ことを獲得したことよりも更に大きな意味を持つのである。
 確かに二本の足で「立つ」ことで「歩く」ことが可能となり、人間の生活環境は、どんどん変わっていった。そして二本の足で「立つ」こと、「歩く」ことの代わりに乗り物、交通機関等、現代文明の発達に繋かってくる。これまで「立つ」ことが人間の特徴と言われてきたが、現代人は、文明の発達により、この「立つ」「歩く」ことの能力を失いつつある。これが二本の脚で「歩く」ことから「坐る」ことの方へ、大きく比重が移りつつあるからではないだろうか。
(森義明著『坐のはなし』)

野生の思考

野生の思考を規定するものは、人類がもはやその後は絶えて経験したことの無いほど激しい象徴意欲であり、同時に、全面的に具体性へ向けられた細心の注意力であり、さらに、この二つの態度が実は一つのものだという暗黙の信念であるとするならば、それはまさに野生の思考が、理論的見地からも実際的見地からも、コントがその能力なしとした「継続的関心」に基づくものであるということではないか?人間が観察し、実験し、分類し、推論するのは、勝手な迷信に刺激されてではなく、また偶然の気紛れのせいでもない。文明の諸技術の発見に偶然の作用が一役を演じたものとするのが素朴な考えである事は本書のはじめに見たとおりである。

 もしこれら二つの説明〔迷信と偶然と〕のうちのどちらかを選ばなければならないとすれば、コントの説明〔迷信〕の方がまだましであろう。ただしその説明の基礎にある推論の誤りを除去しなければならない。コントの考えでは知的進化はすべて「神学的哲学のもつ避け難い原初的支配力」に起原がある。すなわち人間が自然現象を解釈するためには、はじめはどうしても、「これに限っては生成の根源的様式を必ず把握できるという自信をもてる現象であるところの、人間自身の行為」と同化して考えざるを得ないのである。しかしながら、同時に逆の手続で、人間が自分自身の行為に自然現象と比べうる力と有効性を考えなかったとしたら、どうして自然現象と人間の行為を同化することができようか?人類が外化して作り上げるこの人間像は、自然の力が前もってその中に内化されていないかぎり、神の雛形とはなり得ない。人間は自然と自己との間に類似性を認めてきた。それにもかかわらず、人間が、自らの欲求にその自然の属性を見ることなしに、自然には人間の意志と同じような意志があるのだと考えたらしい、と思い込んだところに、コントおよびその後継者の大多数の誤りがあった。もし人間が自らの無力感だけから出発したのだとすれば、それはけっして人間に説明の原理を与えはしなかったであろう。
 真実のところ、効率のある実際的活動と有効性のない呪術的儀礼的活動との差異は、世間で考えられているように両者をそれぞれ客観的方向性と主観的方向性とで定義してつかみ得るものではない。それは事がらを外側から見るときには本当らしく見えるかも知れないが、行為主体の立場から見れば関係は逆転する。行為主体にとっては実際活動はその原理において主観的であり、その方向性において遠心的である。その活助は自然界に対する行為主体の干渉に由来するからである。それに対して呪術操作は、宇山の客観的秩序への附加と考えられる。その操作を行う人間にとっては、呪術は自然要因の連鎖と同じ必然性をもつものであり、行為主体は、儀礼という形式の下に、その鎖にただ補助的な輪をつけ加えるだけだと考える。したがって彼は呪術操作を、外側から、あたかも自分かやることではないかのように見ているつもりでいる。
 伝統的な見かたをこのように修正すると、誤った問題を一つ排除することができる。呪術操作において欺陥やトリックに頼るのが「常態」であるということを、ある人々は問題としている。ところが、自然の因果性に対して、それを補ったり流れをかえたりして人間が介入しうるという信仰に呪術の体系が全面的にのっかっているとしたら、その介入の量的多少は大した問題ではない。トリックは呪術と同質のものであり、本来的に、呪術師に「ペテン」はありえないのである。呪術師の理論と実際との差は、本性的な違いではなくて程度の問題である。
 第二に、呪術と宗教との関係という激しい議論を呼んだ問題がはっきりする。もしある意味において、宗教とは自然法則の人間化であり、呪術とは人間行動の自然化-ある種の人間行動を自然界の因果性の一部分をなすものであるが如くに取扱う━であると言うことができるなら、呪術と宗教は二者択一の両項でもなければ、一つの発展過程の二段階でもないことになる。自然の擬人化(宗教の成立基礎)と人間の擬自然化(私はこれで呪術を定義する)とは、つねに与えられている二つの分力であって、その配分だけが変化するのである。前に記したごとく、この両者は
それぞれ他方と連立している。呪術のない宗教もなければ、少くとも宗教の種を含まぬ呪術もない。超自然の観念は自ら超自然的な力ありと考え、代りに自然には超人間的な力を想定する人間にしか存在しない。
 未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかと言い当てるオーストラリアの原住民のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらに目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いまあいての車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。この比較はまったくとっぴに見えるけれども、多くのことをわれわれに教えてくれる。われわれの能力が研ぎ澄まされ、近くが鋭敏になり、判断が確実性を増すのは、ひとつには、われわれの持つ手段とわれわれの冒す危険とがエンジンの機械力によって比較にならなうほど増大したためであり、もうひとつには、この力を自分のものとしたという感情から来る緊張方の運転里の一連の対話の中で働いて、自分の気持ちに似た相手の気持ちが記号の形で表されることになり、まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。
このようにわれわれは、人間と世界がお互いに他方の鏡となるという、展望の相互性が機械文明の面に写されているのを再び見出すのである。そしてこの相互展望は、それだけで、野生の思考の属性と能力を教えてくれることができるように思われる。
レヴィ=ストロース著『野生の思考』p263

「正しい姿勢」について

「正しい姿勢」の文化的特性であるが、結論から言えば、これは食の獲得にかかわる生産労働の運動形態と密接なかかわりがある、と筆者は考えている。人類の歴史を振り返ると、支配階級や都市に住むブルジョアを除くほとんどの人々は、食の獲得に関する生産労働に従事してきた。競技スポーツほどダイナミックではないにせよ、狩猟、牧畜、農耕、稲作といった日々の労働は、それぞれ固有の運動形態にしたがって、労働者の体型をそれぞれに形作る。泥濘に足を踏ん張り、一つ一つの手で稲を植え続ける水田稲作と、馬にまたがり、あるいは徒歩で、何十頭もの牛や羊を追い掛け回す牧畜労働とでは、その運動形態にしたがって、まったく異なる身体が形作られるだろう。
家畜の肉や乳製品を主食としてきた民族と、野菜や穀類を主食とする民族とでは、消化器官や循環機能、皮膚の質感から体臭までもがまったく違った特徴になるだろう、食事の作法や椅子座、床座といった生活上の基本姿勢についても、おそらく食べることと、生きることとの必然から生まれた秩序が、一連の形式となって、社会を支えてきたに違いない。
このように身体は自然環境と社会環境との歴史的蓄積によって形作られていて、それぞれの文化にはそれぞれの身体の理想像がある。陸上選手にとっての「正しい姿勢」と相撲取りにとっての「正しい姿勢」とが同じではないように、あるいはクラシックバレエと日本舞踊の基本姿勢とが異なるように、それぞれの文化圏にはそれぞれの自然にかなった体の理想像が存在する。

矢田部英正著『椅子と日本人のからだ』p33

「ゆる体操・高岡英夫氏の身体意識トレーニングを独習している人の日記」

私自身は(以前も書いたことがありますが)物事に取組んでいてふと投げ出したくなる傾向を持っていますが、その状態が出てきたときにこの「腹の奥の意識」を持つことで、かなり明確に精神を立て直すことができます。
(これは、以前に書いたもも裏や仙骨の意識よりも、格段に(最低でも数倍)効果が強い)

私自身は(以前も書いたことがありますが)物事に取組んでいてふと投げ出したくなる傾向を持っていますが、その状態が出てきたときにこの「腹の奥の意識」を持つことで、かなり明確に精神を立て直すことができます。(これは、以前に書いたもも裏や仙骨の意識よりも、格段に(最低でも数倍)効果が強い)「ゆる体操・高岡英夫氏の身体意識トレーニングを独習している人の日記「腹の奥」を使う恩恵は計り知れないものなのでは、と思いを馳せる」 より転載。)

やはり、身体的なトレーニングで、精神を作り直すことができるのでしょうか。ゆる体操と精神の関係について、自分自身は実感するところまで至っていませんが、もしかすると今年に入ってから以前と比べて、仕事面でのフットワークが軽くなったのも、昨年半年続けたゆる体操の結果、体の柔軟性が増したことに関係していたのかもしれません。とはいえ、実は、当方今年の一月に膝の靭帯を痛め、それ以来ゆる体操をできていなかったために、その後、まったく成果が上がっていません。ようやく怪我も回復してきたので、再びゆる体操のトレーニングを始めたいところです。もうすこし実験を続ければ、すこしは感想めいたこともかけるかもしれません。

ゆる体操とマラドーナとブルース・リー

ゆる体操とマラドーナとブルース・リー([日本はバルサを超えられる])「バルサ流トレーニングメソッド」の著者で、FCバルセロナの下部組織で指導した経験を持つ村松尚登さんが、ブログで「ゆる体操」の高岡英夫さんについて書いていることを発見しました。高岡さんは、宮本武蔵の「五輪書」に書かれている究極の奥義を「水」と言っているのですが、村松尚登さんは、ブルース・リーの言葉にちなんで「Be  Water My friend」といっています。高岡英夫著「宮本武蔵は、なぜ強かったのか? 『五輪書』に隠された究極の奥義「水」」村松さんも、高岡さんの身体を緩めて運動能力を高める理論に、とても興味をお持っておられるようで、「Be Water My Friendとは?」「Be Water My Friend実験」というカテゴリーをブログに設けて、継続的に「水のような緩んだ身体の作り方」について、書かれています。

ゆる体操、3ヶ月の成果。。。

高岡英夫の「ワールドクラスになるためのサッカートレーニング」に書かれている最も初期のメニュー「ゆる体操」をやり始めて、3ヶ月が経過。ほぼ毎朝、30分ほどかけて首から足首まで身体をゆらす体操をやっている。本来、身体が固まっている朝よりも、入浴後の身体が温まった夜のほうがいいのだろうが、夜は疲れて、体操をやるだけの元気が残っていないため、以前挫折したことがある。。。。そのため、体力に余裕がある朝にすることにした。三ヶ月ばかりだと、覿面に効果が現れたわけではないものの、身体はすこしづつ柔らかくなっているようだ。特に、持病と言ってもいいほど、ここ数年悩まされてきたアキレス腱炎が、ほぼ完治したのは、やはりゆる体操の成果だろう。 Read more »

桃花村の農産物

桃花村農産物農事組合法人桃花村遅くなりましたが、先日のブレスパッセージで買った田中泯がなさっている桃花村で作ったトマトと番茶(極上)の写真です。価格は、それぞれ以下の通り。 Read more »

ブレスパッセージ2009

ブレスパッセージ2009姜泰煥(alto sax)高橋悠治(piano)田中泯(dance)大友良英(guitar)今日、座・高円寺で行われた「プレスパッセージ2009」に行ってきた。高橋悠治と田中泯のコラボレーションに期待していたのだが、あいにく高橋悠治は私用でキャンセル。ただ、高橋悠治のピアノがなくても、十分面白かった。 Read more »

ねこの親子から考える

rimg0087.JPGうちの実家は、野良猫の溜まり場となっていて、毎日何匹もの猫が遊びに来ている。両親が、遊びに来た野良猫に餌をやるようになったのが始まりなんですが、子供が生まれたこともあり、数が増えている。中には、三代目の猫さえいる。。。。。それで、先週、仕事の都合で、実家に戻ったんですが、さらに一匹子猫が増えていた。去年の夏に、帰省したときには、子猫だった猫が、一年で人前になって、この夏、子供を生んだらしい。去年は、自分が、子猫でじゃれていたのに、今年は、自分の子猫にお乳をあげたり、餌を分けたりして、なかなか立派に親猫をやっている。上の写真、その様子。だけど、生まれてたった一年の猫が、キチンと子供を育てて、大人の振る舞いをするのは、驚くべきことだと思いませんか?1歳の人間が、赤ちゃんを産んで、子供を育てる、ということはまったく考えられませんが、なんで猫はそれを普通にすることができるのか。「本能」だといってしまえば、それまでなのだが、人間がまったくできないことを、猫は一年という限られた時間でどうやって覚えるのだろうか。 Read more »

イチローのトレーニング風景

関節の可動域がめちゃくちゃ広い。インタビューを聞いていると、筋肉や身体の状態をすごく敏感に感じていることもわかる。

身体意識

正中線にしろ「丹田」にしろ、身体を解剖して見ても、そこに何か特定の器官はありません。しかし、武道や芸能、スポーツなどさまざまなジャンルにおいて重要なものとされ、これをしっかりもっていると、身のこなしが柔らなくなり、理にかなった身体使いが可能になるばかりか、精神的にも安定、充実してくるのは紛れもない事実です。実体がないのに、あたかもある可能に存在し、人間の身体の動きや精神を規定するものとは何か・・・・・。それは、「人間の意識」ではないでしょうか。意識といっても、頭の中でもやもやといろいろ考えているのもひとつの意識です。しかし、「正中線」や「丹田」などの意識は、これらのものとは違って、身体を舞台にして存在する意識だと考えられます。そこで私は、これらの意識を「身体意識と呼んで括ってみることにしたのです。(高岡英夫著『身体意識を鍛える』p32)

身体意識(高岡英夫著『身体意識を鍛える』p46-47) Read more »

乳幼児の身体能力

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基本的な身体の動きから考えるサッカー

基礎的な身体の使い方からサッカーのプレーを考えている本を、紹介しておきます。まだ、自分で実践できたわけではないので、効果のほどはよくわからないのですが、単にサッカーのプレーについてではなく、人間の身体の根本的な成り立ちから考え始めているところが、面白い。1.高岡英夫著 『ワールドクラスになるためのサッカートレーニング』2.広戸聡一監修『サッカー4スタンス理論』 1の著者高岡英夫さんは、ゆる体操で有名な方。ワールドクラスのプレーヤーはみな、非常にやわらかい筋肉を持ち、一般の人では使うことが難しいインナーマッスルでプレーしている、という考えに沿って、筋肉をやわらかくする「ゆる体操」や、インナーマッスルを鍛える方法などが書かれている。2は、 人には4タイプ(4スタンス)の身体の運動軸の作り方があり、それぞれタイプにあった運動方法がある、という考えに基づいて、4つのタイプ別に、走る・蹴る・止まる、といった基本的な運動の適切な方法が解説されています。お二方とも、もともと武術出身の方で、どちらも基本的な身体の使い方に基づく理論であるので、サッカーに関するものだけではなく、他のスポーツや日常生活の身体の使い方などについて解説された本も、多数出版されている、という点に共通点があります。やはり武術には、身体の使い方に対して深い考察の歴史があって、その蓄積は現代の様々な分野で応用できる可能性がある、ということなのでしょう。

身体について

6月/7月と二ヶ月間で、二つの記事しか書いてなくて、暫く、更新が途絶えてしまいましたが、また再開したいと思います。仕事に追われて、すこしスランプに陥っていたかもしれませんが、すこし復調してきましたので。今回は、すこしテーマを代えて、趣味のサッカーについて。これまで、あまり書いてませんが、僕は趣味でサッカーをしている。その上、年甲斐もなく、まだ上達しようと考えている。通常、運動能力は、年齢と共に低下していくと考えられているわけですが、年齢をトレーニングでカバーできるものじゃないのか、と信じている。同い年の伊達公子は、今でも若手選手と十分戦っているし、イチローはたった二つ違うだけ。身体能力が非常に大きなウェートを占めるように思える短距離で、朝原宣治がオリンピックでメダルを獲得したのも、36歳のときである。トップアスリートですら、30代後半で活躍できるのだから、アマチュアレベルだったら、相当の年齢まで十分やれるんじゃないか。確かに、加齢で筋肉繊維は、少なくなっていくらしいが、一方で使えば使うほど筋肉は強くなるのだから、歳をとれば採るほど、身体能力が落ちていくというわけではない。身体が動かなくなっていることを歳のせいにするのをよく聞くが、本当の原因は、一般の社会人の生活で、身体を使うことが少なすぎることにあるんじゃないだろうか。 Read more »