ブリコラージュから生まれる万華鏡的神話

 各項が心理的過程もしくは歴史的過程のなごりの断片であり、したがって必然性を欠いているような論理を考えるのは、たしかにいささか逆説的である。論理とは必然的関係の設定である。なんらそのような機能を果たすようにはできていない各項のあいだに、どうして必然的関係が立てられようか? 命題はその各項が曖昧さの余地なくあらかじめ明確に定義されているのでなければ、厳密なつながりをもち得ない。前章においてわれわれは、経験的(結果的)にのみ成り立つ必然性の諸条件を見出そうという、不可能な仕事を自らに課したのではなかろうか?
 しかしながら、第一に、これらの断片がそうした性質を示すのは、それらを生み出した歴史の目で見るときだけであって、それらの目的である論理の観点からすればそうはならないのである。それらが雑多不整であると言えるのは、もっぱら内容についてである。形式については、それらの断片のあいだには類似性がある。それは、すでにブリコラージュの例で明らかにしたところである。すなわち類似性は、それら断片の形式そのものの中に内容の一定量がはいっている点にあり、またその内容の量は、断片のすべてについてほぼ等しい。神話の用いる能記としての比喩も器用人の用いる材料もともに、二重の基準によって定義できる要素である。それらは、一つの言説を構成する単語として、「すでに使われた」ものである。神話的思索がそれを分解するのは、器用人が古い目覚まし時計を分解してその歯車をとっておくのに似ている。それらの要素は「まだ使える」ものである。もとと同じ用途にも使えるし、また機能を少しかえて別の用途にも使える。
 第二に、神話の用いる比喩も、器用人の材料も、純粋な生成過程から生じたものではない。新しい用途に使おうとして観察すると、それらには厳密さが欠如しているように見えるが、かつてそれらが統一性をもった全体の一部を構成していたときには、その厳密さを保有していたのである。それのみならず、それらが原料ではなくてすでに手を加えられた加工品であるという限りにおいては、依然としてその厳密さを保持している。言語活動の構成単位、また器用仕事の場合なら一つの技術的体系〔エ作物をさす〕の構成単位として、それらは必然的関係の凝縮された表現である。過去の必然的関係は、その後これらの要素を利用するとき制約となり、その各段階においてさまざまな形で反響する。それらのもつ必然性は単純かつ一義的なものではない。しかしながらそれは存在する。要素それぞれにおこりうる諸変換をまとめた群を定義する意味的もしくは美的な不変式として存在する。そしてその変換の数が無限でないことはすでに見たとおりである。
 この論理の働きかたはカレイドスコープ(万華鏡)にやや似ている。カレイドスコープ心断片を内蔵し、それを用いて構造的配列を作り上げる。それらの断片は、それ自体偶然的な破壊の過程から生ずるものであるが、形、色合のはがやかさ、透明性など、あるいくらかの相同性をもっていなければならない。かつて製品として一つの「言説」を述べていたときにくらべると、それらはもはや固有の存在性をもたず、名状すべからざる断片になってしまっている。
しかしながら、他の観点からすれば、新しい型の存在の形成に有効に参加するに足るだけの存在性はもっているはずである。この新しい存在は、鏡の作用で、像がもの自体と等価値になるような、すなわち、記号がその指示対象と同列に並ぶような配列として成立する。これらの配列は、いろいろな変形の可能性の現実化である。その可能性の数は、非常に多いものであるにしても、やはり無限ではない。なぜならそれは有限個の物体のあいだにおこりうる可能な配置と均衡の関数だからである。さらにとりわけ、これらの配列は、偶然的出来事(見る人によるカレイドスコープの回転)と法則(カレイドスコープの構成を支配する法則━さきほど述べた、諸制約共通の不変要素に対応する)が出合って成立し、了解性の暫定モデルとでも言うべきものを映し出すのである。なぜならば、配列のそれぞれは、それを構成する各部分のあいだの厳密な関係の形で表現することが可能であり、またそれらの関係は、配列自体以外に内容をもたず、見る人の経験の中にはその配列に対応するものがなにもないからである。(もっとも、このような見かたをすれば、カレイドス=Iプを見ている人に、あるいくらかの客観的構造がその経験的支持物〔その構造をもった具体的事物〕以前に示されることは起りうるIたとえば、雪の結晶の構造やある種の放散虫類や植草類の構造が、それらのものを一度も見たことのない人に。)

レヴィ=ストロース著『野生の思考』p42

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