学生作品の講評会に絡めて

先日、今年度非常勤講師を務めてきた学校の学生の課題の講評会に行ってきた。そのことについて、感想をすこし書いておきたい。建築を勉強し始めて一年目の学生たちが相手なので、それらの作品のレベルをどうこういうつもりはない。しかし、多くの学生が、いまだに「主体」信じて作品を作ろうとしていることには、違和感を感じた。現代思想や現代建築の場において、”創作”を成り立たせると信じられてきた「主体」について、散々批判がされ、独立した「主体」など存在しないと言われている。にも関わらず、いまだに多くの学生は、「主体」を拠り所にして作品を制作しようとしている。本も読まない、作品集も見ない、講師のアドバイスも聞かない。まあ、こういう学生は論外といってしまえば、それまでなのだが、努力を怠っているというより、あえて外部からの情報を遮断して、自分の内面の観察することで、独創的な作品が生まれてくる、と未だに信じているかのように感じるのである。これは、単に僕が担当した学生たちだけではなく、大半の人々にこのような傾向があるのではないか、という気になってくる。そんな観念を、学生たちは、どこで身に着けてしまったのだろうか?”個性”を尊重するゆとり教育が、そんな傾向を強めてしまったのだろうか。確かに、自分の学生時代を思い出しても、美術の授業では、絵画の技法や美術の歴史が教えられるのではなく、「自由に」「自分の思ったとおりに」描く事が薦められた。また、大学の建築学科でも、そんな授業が行われていたことを思い出す。(特に、僕の通った早稲田大学の建築学科は、伝統的に主体の内面を表出しようとするロマン主義的な傾向が強いのだが。)しかし、これまで”個性”と信じられてきたものが、どれだけ歴史に束縛されているかをまず認識するべきだと思う。その認識からしか、真にクリエイティブな製作は生まれない。

  1. 先日の講評会お疲れ様でした。いきなりのコメント失礼します。私は初めて自分で考えたプランを形に起こしたことで、建築家の人がどのような目線で、どんなことを考えて評価するのかを知り、まさに「主体」で行なったのでは不具合が大きいということを痛感しました。なので、もう学校は終了しましたが、先人の作品を見て、彼らがどのように考え、どう形にしたのかということを学んでいき、建築のことをもっと知りたいと思っています。もともと建築が好きで、よく作品集などは見ていたものの写真をみてすごいなと感じるだけでした。それでも、今回自分で考えて設計をしたことで、躯体の寸法や部屋の配置の仕方にも興味を持ち、図面を見たいと考えるようになりました。まだまだ建築の知識がなさ過ぎて仕事が出来るにはほど遠いですが、いつかずっと先の将来に、建築の設計ができる人間になっていたいと思います。

  2. コメントをありがとーこちらのブログを見てもらえていたみたいで、光栄です。繰り返し同じようなことを話したつもりなのですが、限られた授業の中では、十分伝わっていなかったと思ったので、改めて書いてみた次第です。誰も見ていないかと思っていましたが、書いた甲斐がありました。今年の課題が、今後の勉強のきっかけになれば幸いです。これからもがんばってください~

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