住宅設計で考えること

建築とは生活である。生活と一言に書いたが、それを構成しているのは多層化された質である。そこに住んでいるのは人間だけではない、犬も猫も、何種類もの植物、生物が棲んでいる。そして人間となると、同じ一人で複数の異なった生物のように、そのつど、姿形、行動を変える。今西生態学にすみわけという概念があるが、異なる生物はそれぞれ異なる質の領域を必要とし、それらはお互いに決して交じり合わないことを要求する。自然は無数で雑多だが、それぞれは頑ななまでに潔癖で完結した世界(人がプライバシーを要求するように)要求するのである。たぶん建築を設計するということは、この無数の世界のそれぞれの自律性を保ちつつ、いかに多元的に重ねあわすことが出来るか、ということに尽きるだろう。その多元性が建築が含む無数の質(たとえば壁や床のザラつきも)を決定する。こうして出来上がった建築を記述する唯一の視点は存在し得ない。居間での視点、風呂での視点が違うのはもちろんだが、そこには犬の視点、花の視点(etc)など無数の視点、無数の世界がそれぞれの自律性が保たれたまま含まれていなければならない。(岡崎乾二郎「建築の質、自然の質」『住宅特集2005/01』p103)

今、住宅を設計しながら、頭の中にあるのは、岡崎乾二郎さんの上記の言葉だ。多くの建築家は、構造の整合性、立方体、美しい幾何学で構成される平面図、などというように、建築に向ける視線を、設計図や模型をつくる職業的な視線に限定してしまっている。仕上げで覆ってしまえば、整合性のある美しい構造も見ることは出来ない。また、人の身長からは建物の全体を一挙に把握することも難しい。にもかかわらず、美しい構造体や、立方体のボリューム、美しい幾何学で構成される平面図のパターンにこだわるのは、建築家が設計図や模型を介して建築を眺めているからである。そして、その職業的な視線から、他の視線をすべて捨象して、建築としてまとめてしまっている。建築の素人からすれば、なぜ建築家がこのような視線に固執するのか理解できないだろう。しかし、建築家は、その視線から表象された建築(つまり、設計図や模型など)が書籍や雑誌などのメディアを介して伝達されることで、芸術ととしての「建築」を捏造できることを知っている。タレントと商品を並列させるテレビCMを経験することによって、実物の商品にタレントのイメージを投影してしまうように、建築も、実体の建築からだけではなく、写真や図面、といったメディアを介した経験がある。素人からは認識できない職業的な視線から記述されたはずの建築が、雑誌や書籍などのメディアを介することによって、芸術としての「建築」として認知された後に、実体の建築までもありがたい建築作品になってしまうのは、そのようなテレビCMと同じ効果による。素人である依頼主が、建築雑誌などのメディアに向けて建築を設計している建築家に、建築の設計頼もうとするのは、建築家によって設計された建築が、メディアを経由することで、芸術作品として社会的に認知されるようになるからに他ならない。そのような現状の建築を取り巻く視線を認識した上で、今自分が住宅設計に際して、興味があるのは、このような欺瞞的な視線をいったん外した上で、どのように建築を組み立てることが出来るのかということである。模型や設計図を介せば、居間も風呂も同一の俯瞰する視点から眺めることが出来る。しかし、岡崎さんが書いているように、実際に立ち上がった建築において、居間と風呂を同時に見ることは出来ない。これまで建築家が依存してきた職業的な視線を外すと、建築の設計は、自律した無数の視線を一つ一つ丹念に把握しながら、限定された敷地の中で同居させるという、複雑な作業になってくる。その作業の過程については、改めて書いてみたいと思っている。

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