統整的理念

ポストモダニストは、歴史のいっさいの理念を物語だといって否定した。つまり、理念は仮象だというわけです。しかし、それは別に新しい考えではない。そもそもカントは、理念は仮象だといっています。ただ、それは、感覚に由来するような仮象とはちがう。。それなら、理性によって訂正できる。ところが、理性から生じる、理性に固有の仮象がある。たとえば、昨日の自分と今日の自分は同じ自分だと人は思う。しかし、ヒュームがいったように、同一の「自己」など仮象に過ぎない。ところが、もしそのような幻想を持てないとどうなるか。統合失調症になるでしょう。だから、この種の仮象は不可欠であり、また不可避である。カントはこのような仮象をとくに「超越論的仮象」と呼びました。理念も超越論的仮象です。共産主義という理念も同じです。超越論的仮象(統整的理念)がなくなればどうなるか。いわば、歴史的に統合失調症になる。先進国のインテリは、理念を物語(仮象)だといってシニカルに笑っているが、それではすまない。すぐに別の理念(仮象)をでっちあげることになる。フランシス・フクヤマみたいに、歴史はアメリカの勝利によって、自由民主主義が実現されて終わったというような、乱暴なヘーゲル主義的な観念論が出てくる。他方で、露骨に宗教的な原理主義が出てくる。理念を必要とする時代は全然終わっていないのです。理念は終わったと冷笑するインテリは、やがて冷笑されるか、忘却される。(柄谷行人著『柄谷行人政治を語る』p69-70)

”先進国のインテリ”同様、レム・コールハースに代表されるような現代建築家の多くも、ここで柄谷行人がいっている意味でのポストモダニストである。一方、 統整的理念に向けた建築を考えている建築家に、石山修武がいる。去年、世田谷美術館で行われた展覧会のタイトル「建築が見る夢」とは、建築にとっての統整的理念を指している。柄谷行人が、この展覧会にあわせて出版されたカタログに「石山修武と私」というエッセイを書いたのも、石山修武が統整的理念に向けた建築を考えている数少ない建築家であるからだと考えられる。

  1. え、柄谷さん、石山さんのカタログに書いていたんですか!当然、展覧会はみましたが(近所に住んでることもあり・・・)、カタログは見ませんでした。さっそくかってきます!いい情報をありがとうございました。!!

  2. コメントありがとうーございます。ただ、「石山修武と私」は、それほど突っ込んだ内容ではないですよ。確か、柄谷さん自身、宮沢賢治に関する対談で、宮沢賢治に対するいい批評がないことをたとえて、「「賢治と私」といった程度の文章しかない!」、と嘆いていた記憶があります。。。。ですので、「石山修武と私」というタイトルは、「大した批評はできません。。。」という柄谷さんの自己弁明だという気がします。

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