史的システムの末期的危機とシステム間移行期における政治闘争

結果として、来るべきものとして考えられるのは、無謀さそのものである。世界=経済が新しい拡大期に入ったとしても、まさにそのゆえに、この末期的な危機を導いたそもそもの諸条件はさらに悪化することになろう。理系的に表現すれば、ゆらぎがしだいに激しくなり、「カオス」的になって軌道の方向性がいよいよ不確実性を増すということである。

進む速度は刻一刻と上がっていきながら、道はますますジクザグに曲がりくねってい来るようなものである。同時に、我々に予期しうることは、国家組織が正当性を喪失するにつれ、集団及び個人のセキュリティは低下する-それもおそらくめまいがするほどに低下する-だということである。それは世界システムにおいて日常的に暴力の量が増大するということに他ならない。これは大半の人々にとって恐ろしいことだろう。当然である。

政治的には、この状況は大混乱となるだろう。なぜなら、これまで我々が近代世界システムを理解しようとして発展させてきた標準的な政治学的分析は、もはや妥当しない、旧時代になってしまったと思われるからである。現実にはそういうわけではない。ただ、そういった分析は主として既存の世界システムに属する進行中の過程に当てはまるものであって、[史的システム間の]移行の現実には妥当しないものなのである。だからこそ、[史的システムの末期的危機とシステム間移行の]両者の区別、および両者が重なり合っている現実がどのような展開を示すかということについて明晰に思考することがきわめて重要なのである。

進行中の現実について言えば、政治的行動によって、その過程になんらかの影響を与えようというのは、ほとんど不可能なことのように思われる。下り坂の壊れた車の比喩に戻れば、そこに感じる何やらどうしようもない感覚は正当なものであり、できそうなことといえば、せいぜいのところ、直接の被害を最小限に食い止めるためにあれこれ操作して見るといったところである。しかし、移行の過程全体について言えば、この逆こそが正しい。まさにその帰結が予測不能であるがゆえに、そしてまたゆらぎが激しいがゆえに、きわめて小さな政治的行動でも、大きな帰結をもたらすということになるだろうからである。私としては、これを自由意志が真に役割を果たす歴史的な契機と考えたい。
この長い移行期は、二つの大陣営間の巨大な政治的闘争として捉えることが出来る。すなわち、既存の非平等主義的システムの中で諸特権を維持したいと望む人々が結集する陣営と、既存のシステムよりも実質的に民主的でかつ平等主義的な新しい史的システムが作り出されることを望む人々が集結する陣営である。しかしながら、前者の陣営に属する人々が、いま私が表現したような形で自らの姿を示すだろうとは思われない。彼らは、自分たちは近代化を推進しているのだと主張し、自由と進歩を唱導する新しい民主主義者だと述べ立てるだろう。革命を口にするものさえいるかもしれない。しかし求むべき鍵は、レトリックではなく、実際のところ何が提案されているのかと言う実質の方である。
この政治的闘争の帰結は、部分的には、誰が誰を動員しえたかということの帰結によることになろう。しかし同時に、何が起こっているのか、そして我々が全体として直面している実質的な歴史的選択肢がなになのかについて、よりすぐれた分析を行う能力にも大いに左右されるだろう。これは知識、想像力、そして実践を統合しなければならない契機なのである。さもなくば、今から一世紀後、われわれはまたも「換われば変わるほど、同じこと」とかこっているかもしれない。何度でも言おう。帰結は本質的に不確実的である。そしてそれゆえにこそ、まさに人間がそこに介入する力、そして想像力にそれ開かれているのである。

ウォーラーステイン著『脱商品化の時代』p94

コメントを残す