史的システムの末期的危機とシステム間移行期における政治闘争2

史的システムが危機にあるときには、二つの基本的方向のうち、一つに向かって進むことが出来ると私には思われる。つまり、ひとつには、既存の史的システムのヒエラルキー構造を保存しようとすること-ただし、新しい形態、さらにはおそらく新しい基礎において、ではあるが-が可能であり、また一つには、可能な範囲で不平等を削減-完全な廃絶とまでは行かずとも-しようとすることが可能である。そこからいえることとして、我々の大半は(全員ではないが)現在のシステムにおいて享受している特権の程度を起点として、右の二つの選択肢のうち、いずれか一方を選ぶことになる。すると、二つの広範な人間の集まりが現れてくる。これは、文明によっても、ネイションによっても、現行の定義による階級的地位によっても同定できないものである。
二つの集まりが演ずる政治を予言するのは難しいことではない。ヒエラルキーを好む陣営は、現在自らが持つ冨、権力の利益を享受しており、したがって情報、知識、また言うまでもなく兵器をも手中にしている。それにもかかわらず、その強さは、たしかに明らかではあるが、ある一つの制約に服している。それは可視性の制約である。定義上、この陣営は、数の上では世界人口の少数者を代表していることになる以上、ヒエラルキー以外の主張を訴えることで、外部の支持を引き付けなくてはならない。つまり自ら優先事項の可視性を落とさなければないのである。これは必ずしも容易なことではなく、その達成の程度に応じて、陣営の中核をなす成員の間に混乱が生じたり、連帯が損なわれたりする原因となる可能性がある。したがって、勝利は約束されていないのである。
これと対決するのは、数の上で多数に立つもう一つの陣営ということになろう。しかし、この陣営はきわめて分裂的である。それは複数の個別主義によって、さらには複数の普遍主義によって分断されてしまっている。このような非一体性を克服する処方は、すでに示されている。「虹の連合」である。しかしこれは、言うは易し、行なうは難しである。そのようなやり方に参加するそれぞれの者の利益は中期的なものであるが、きわめて確実に、全て我々には短期的な事情がのしかかってくる。われわれには、短期的な利益を無視するだけの規律もなければ、頼るべきたくわえもないことがほとんどである。つまるところ、我々個人として、短期的に生きている。我々が中期的な生を持ち、われわれが優先すべきものの構図に、短期的な時間性以外の時間性を設定するということは、ひとつの集団としてでなければありえないことである。そして、一国的な虹の連合ではなく、グローバルな虹の連合を作り出すことを考えると、それが、いかに巨大な課題であり、そのような連合を作り出すための時間がいかに少ないかということに気がつくのである。

(ウォーラーステイン著『脱商品化の時代』p205)

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