利子率革命

水野 依然として金余りだと思いますね。その背後には、二一世紀の利子率革命があります。利子率革命とは、具体的には2%以下の超低金利が長期間続く状況を意味しますが、10年以上に渡ってそれが続くと現在の経済・社会システムが崩壊してしまうという点で、まさに利子革命なのです。実際、日本の10年国債利回りば、1997年9月に2%を下回って以降、現在にいたるまでその水準が続き、すでに12年目に突入しています。これは、超低今利の最長記録だったイタリアージェノバの11年(1611~21年)をも上回っています。この17世紀初頭のイタリアで起きた利子率革命は、「長い16世紀(1450~1650年)」を通じて中世荘園制・封建制社会から近代資本主義・主権国家へとシステムを一変させました。日本が先陣を切り先進国に広がっている現在の利子率革命は、一七世紀初頭の利子率革命がもたらした資本、国家、国民の三者の利害の一致を前提とした資本主義に地殻変動が起きていることを物語っていると思います。
利子率革命のもとではどんなことが生じるかというと、投資家が満足するようなリターンを得られる投資機会がもはや存在しないということです。利子率革命の利子率とは、いわゆる実物投資のリターンをあらわしています。つまり資本投下して工場やオフィスビルをつくったりして得られるリターンが年率換算で、2%以下になるということです。現在の日本の10年国債利回りは1.4%ですから、10年間の投資期間において、ずっと1.4%のリターンしか得られない。貸倒損失が年間で1~2%発生すれば(通常の景気循環で生ずる確率、10年間のリターンはゼロないしマイナスになってしまいます。10年リスクをとって実物投資をしてもリターンがゼロなんてことは、資本家失格ですね。もちろん、利潤率が著しく低い状態が長期化することは、企業が経済活動をしていくためいくの必要最低限の資本蓄積もできないということになります。しかし、いいかえれば、それは投資機会か消滅するところまで、投資が行き渡ったということでもあります。

17世紀の利子率革命のイタリアでは、16世紀の半ばから利子率がどんどん下がり、1619年には、1.125%まで下がりました。当時はワイン畑が投資の最先端産業でしたが、ワイン畑に投資しても、もうI%しかリターンが得られないことを意味します。ブ口ーデルは『ブローデル歴史集成Ⅱ 歴史学の野心』の中で、グイッチャルディーニの『イタリア史』を引いて、一六世紀のイタリアは山頂まで耕作されている、と書いています。山のてっぺんまでワイン畑になるほど投資が行き渡り、投資する上地がなくなってしまったんですね。
このことを日本に置きかえると、現在、日本の実物資産は、政府資産を除いた民間資本ストック(インフレ調整後の2000年基準価格であらわした実物資産)だけで、08年末時点で1209兆円あります。2008年の日本のGDPが544兆円ですから、GDPの2.2倍に達します。つまり、544兆円経済で1200兆円の店舗・建物・工場などを持っていることになります。先進国の実物資産のGDP比は、日本についで高いドイツでも1.8倍、アメリカ、イギリスにいたってば、1.1倍、1.4四倍ぐらいしかない。
事実上世界一の水準にまで目本の実物資産を積み上げることができたのは、戦前、戦後一貫して高い貯蓄率を維持していたからです。実物投資をしていたときには、貯蓄=投資ですから、100の所得があれば、そこから5は節約して貯蓄する。その五が投資に回り、それが工場などの資本ストックになる。工場などをつくるための設備投資は、だいたい実質GDPの15%程度を占めますが、その設備投資のお金は、グローバル化する前は、事後的には国内の貯\蓄と等しくなります。日本の家計貯蓄率は、1970~85年にかけて~平均で18.7%でした。100の所得のうち80しか消費しなくて、20も貯蓄できる国士というのは、どんどん工場などの実物資産が蓄積されていくことになります。する九回・サービスの供給量が増えて、国内だけでは需要が足りなくなり、最後は輸出を拡大させていく。それが大幅な貿易収支の黒字になり80年代後半には貿易摩擦の原因にもなりましたが、そうして対外純資産が225兆円となって、世界一を誇っています。
しかし、GDPの2.2倍もの実物資産が積み上がるというのは、日本全土のあらゆるところに投資がおこなわれたことになりますから、あと一単位投資するときの利回りは当然低くなる。高速道路は民問資産ではないのですが、分かりやすい例です。日本の高速道路は2002年には総延長が7000キロを超え、2007年にはほぼ9000キロにまで達しています。2006年には日本は道路密度(1平方キロあたりの道路延長)が3.16キロで、ベルギー(4.99キロ)やオランダ(3.72キロ)の域に近づいていますから(ちなみにドイツで1.85キロ、イギリスで1.62キロ)、道路は日本全国を網羅していて、あとは効率の悪いところしか残っていないことになります。つまり、限界効用がゼロに近づいてきた。同じことが民間の実物投資において生じたわけです。投資機会が消滅し、資本の行き先がなくなり、金余り現象が起きることになります。
アダム・スミスは、生産増大のプロセスは社会が必要とする資本のすべてを築き上げたときに停止すると予測していました。その意味では、1997年から利子率革命に見舞われた日本は、世界に先駆けて社会が必要とする資本を築き上げ、近代資本主義が目指した地点に到達したといえます。
1992年にフランシスーフクヤマが『歴史の終わり』を書きます。フランシスーフクヤマを見習ってというわけではありませんが、日本は1997年に誇りを持って「資本家の終わり」を宣言すればよかった。「資本家の終わり」というのは、みんなが豊かになれるぐらいに資本の希少性がなくなるということです。資本が不足しているときは、資本を持っている人が有利です。だから利子率が高く、資本を持っている人は、商い利息を得るわけです。ところが、金利か低いということは、資本家の価値がないということを意味します。ケインズは『雇用・利子および貨幣の。一般理論』の終わりのほうで、資本工義は将来、資本の蓄積によって利子生活者が安楽死し、それが経済全体を望ましい方向に導く社会改革になると書いています。先ほどのアダムースミスの予測と同じですね。利子生活者が安楽死する、それが1997年の日本に訪れた状況だったと思います。
(水野和夫「ケインズの予言と利子率革命」『atプラス01』p28)

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