モノとコトの共立を、どのようにモデル化したらいいのか。まず私は、どうして、モノとコトが既存のモデルで二者択一なのかを考えてみた。
ボイドにおいて、最も基本的であり、自己推進粒子モデルの根幹だった規則は、速度平均化の規則だ。その意味するところは、各個体におけるモノとコトの完全な統合だったはずだ。自由を有し、原理的にパラパラな振る舞いをする個の集よりとして想定されるモノは、個性を押し殺し画一化されることでのみ1個の全 体=コトになる。このモデルの背景には、群れ形成には個性の封印しかあり得ないとする考え方がある。
こうしてモノが封印されたとき、モノとしての性格、個の自由を別な形で補完し表現するものが、ゆらぎであった。自己推進粒子モデルにおける平均化規則とゆらぎの結合は、統合によるモノとコトの両義性の欠如を補う新たな両義性補完機構だったはずだ。
しかし、ゆらぎの導入による新たな両義性の補完が度を超すと、今度は両義性が元論的に展開され、モノとコトとは二者択一となってしまう。モノとコトは、ゆらぎと速度平均化規則に対応づけるかぎり、相容れない、水と油のような関係になってしまうのである。
平均化規則として用意されるコトーこれ自体が、モノ(自ら)と周囲(コト)の統合の結果だった—–は、周囲に対する同調圧力であり、周囲への受動的規則である。一方では、周囲から独立した自由な振る舞い、能動的な振る舞いこそ、ゆらぎによって表されるものである。ここにあるのは、極端な受動、極端な能動といえるだろう。モノとことは、能動的、受動的なあり方を示すものであるが、極端な受動・能動の対は、反発しあうばかりで、両者を二者択一に陥らせる。
したがって受動、能動の両義性によって、両者の共立した相互作用—-それは局所に見出される社会性だ—-を構想するためには、受動、能動の対立軸をぶれさせ、両者の共立を実現するための、新たな概念装置が必要となるだろう。それが、「能動的受動性」「受動的能動性」である。
能動的受動性とは何か。それは受動的であることに積極的であることを意味する。だれかが何かアクションを起こし、自分はそれに従う。このような受動的状態の実現に向けて能動的積極的アクションを起こす。それが能動的受動性である。
最も端的な能動的受動性は、「いらっしゃいませ」であろう。英語なら、メイーアイ・ヘルプーユー、「何かお手伝いしましょうか」というわけだ。自分から能動的に何かするのではなく、ひたすら、やらせて欲しいと頼み込む。だから、ここにあるのは能動的受動性である。
(郡司ペギオ-幸夫著『群れは意識を持つ-個の自由と集団の秩序』)p151
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