四谷アート・ステュディウム-建築農業工作ゼミ①

四ツ谷にある四谷アート・ステュディウムっていう美術学校で講師しています。いろんな人からすすめられて、ぼくもゆる~くさえずってみることにした。けれど、ゆる~くさえずる、なんてこと、鳥たちはしない、たぶん。だから、これは人ならではの奇妙なふるまいのひとつってことになる、さえずりは。芸術も生活もなんやかんやでてんやわんや。おかげでなにがなにやらてんてこまい。いやはやまったくまいった。さてとこれからどうする? 迷うくらいなら途なき途を往け、きみの往った後にはぱっくり開けた深い亀裂が走っていたということさ。ぼくが四谷アート・ステュディウムでどんなゼミを受け持っているかっていうと、建築農業工作ゼミという、舌を噛みそうで、しかもそれどころじゃなくて、なんだかてんでわからないまったくもって得体の知れなさそうなゼミだ。建築と農業と電子工作っていうんだから、どうしてそれが繋がったりするのさ。て、いうことになる。そうおもうことはあながちあやまりだとはいえない。しかし、これが繋がるんだ。というか、本来無関係だとおもわれるものを意外な角度から繋げてしまう。それが四谷アート・ステュディウムの魅力だ。そのもっとも大胆なゼミが、このゼミ建築農業工作ゼミなのであります。建築農業工作ゼミのブログhttp://ken-nou-kou.blogspot.com/四谷アート・ステュディウムのゼミ紹介のページhttp://artstudium.org/kouza_skill.htmこのゼミの担当講師は3人。建築担当が中谷礼仁先生。言わずと知れた著名な建築史家。このTwitterもフォローしてくださっている。http://www.nakatani-seminar.org/index.html電子工作が福井裕司先生。この人は電気系、歯車系、エネルギー系なんでも知っていて、なんでも自分で組み立ててしまう。歩く技術教室。知る人ぞ知る恐るべきスーパー・エンジニア、建築家だ。こういう人がいるってことは世の中まだまだ捨てたもんじゃない、という証明になる。で、農業担当が、このぼくってわけだ。ところが上の、というより下の(ここでは上だが)先生方と違ってプロ農家ってわけじゃない。本業は芸術家ってことになってる。数年前2年半ほど農家に住み込んで農業を学んだ。昼は畑。夜はシュルレアリスムの研究に明け暮れたもんさ。農業と芸術。これを繋げるのがぼくのしごとだ。畑で土に塗れ、虫に刺され、蛇に噛まれ、風に扇がれ、雨に洗われ、ぼくにも生意気にもチョコッとわかった。つまりだ。農業っていうのは「一挙にすべてを知る技術」。これである。この「一挙に」というのが肝心だ。そして「すべて」があった。どういうことか。少しづつ書くからね、あわてないことさ。ところで、建築工作だとしっくりくるけど、そのあいだに「のうぎょー」って入ると、なんだかイメージつきにくくてよくわからない。それに都会の真ん中、「四谷でのうぎょー?」って疑問は増々増すばかり。でもね、四谷怪談てのもあるんだからさ、四谷で農業もいいじゃない。まさに怪談、かもね。でも四谷で畑耕すってわけじゃない。そんなことができればすごいけど。残念ながら、世間はなんでも切り分けられている。都会と農村、人工と自然、生産と消費、記号と物質、裕福と貧乏、持てる者と持たざる者。なんでも切り分けたがるのが人の悪い癖だ。癖、ってことはつまり、それが人の本性だってことさ。本性であるからにはどうしたって人は切り分ける。切り分けることそれ自体が悪いってことじゃない。しかしだ。それがいったいどんな目的で誰にとって都合のいい切り分けかってことに思いを巡らす必要はある。知りたいのはそのしくみだ。舌ったらず鼻タレの頃はそうとは知らずいろんなものわけて分解して無邪気だった。反抗期、分けることより分けられてることに反発した。おかげでオツムとカラダがあべこべの別個になっちまって,アソビとシゴトが噛み合ない。面倒だから見なくなった、既に切り分けられたものしかね、ってことになる。

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