植物や動物あるいは人間の死体や排泄物や分解物は、土の中や地表に住んでいる微生物によって分解され、土に育つ植物によって吸収されて生命の流れの大サイクルの中にはいってくるから、土の世話にならずに生存できるものはほとんどないといえる。
日光エネルギーによって空中高く育ちゆく樹木も、野に花咲く野草類も、いつか葉が落ち、からだごと枯死し死体となって土にはいってゆくし、これらの植物の間で生活していた虫類は野鳥に食われる。野草を食べていたウサギは排泄物を土中に与える。
動植物の死体や排泄物は、土中で微生物の栄養になったり、分解されて植物の養分として吸収されてゆく。土こそは物質循環のお世話役なのである。作物を栽培する耕地もまた、これらの循環のうえに、堆肥や化学肥料の施用、耕耘などが人工的に加わったより複雑な循環系である。前田正男/松尾嘉郎共著『土壌の基礎知識』p16
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物質循環の要である土
流通機構変革の手段としての兼業農家
これまでの歴史を振り返って見ても、良い政府を作ろうとして革命を起こしても、新しい革命政府がもっと悪い政府になってしまった例は枚挙に暇がない。より良い社会を作るための革命など、長期的にはナンセンスであることがわかるだろう。
より良い社会を作るためには、新しい文明を作るのではなく、文明を放棄しなければならない。文明を放棄し、権力に風穴をあける方法はただ一つしかない。それは、権力に余剰食糧を供出しないことである。また、権力から食料を受け取らないでも生活できるようにしておくことである。これは、食料の家族自給によって可能となる。
家族自給とは家庭料理の延長である、と考えた方が良い。鍋釜に入れるところから家庭料理になるのではなく、鍋釜に入れるものをつくる所から家庭料理だと考える。つまり、権力としての流通機構に風穴を開けるといったところで、そんなに過激に突拍子もないことをするわけではないのである。「今後、当分の間(石油文明が終わるまで)兼業農業者になりましょう」ということだ。
なぜ兼業化というと、基本食料が自給できたとしても、この石油文明では、食料だけでは社会生活が出来ないからだ。子供の教育にもお金がかかる。したがって、どこかに労働を売って、現金収入を得なくてはならない。だから兼業農業をすることになる。
槌田敦『エントロピーとエコロジー』p169
褐色土壌の発達順序
土壌
土壌とは、岩石の風化物・生物の遺体やその分解物(腐食)が混じりあった、土地の表層部である。植物は、ここに根を下ろして生育している。土壌の発達
土壌は、はじめから陸地の表層に存在したものではない。岩石が風化し、植物が生育するにつれて、作られてきたものである。1例として、日本の森林地帯に広く分布する褐色森林土壌について、土壌発達のあとをたどってみよう。
図2の1は、母岩(C層)が露出している状態である。表層には、地衣類・コケ類が生育しているだけである。母岩の風化が進み、陽性植物が進入すると、表面に植物遺体の堆積層(A0層)が形成される。植生の繁茂が続き、母岩が、根によってさらに細かく、深く砕かれると、A0層の下に、有機物の黒い層(A層)が出来上がり、さらにその下に、有機物の含まない茶色の層(B層)が分化してくる。十分に発達した土壌では、A層・B層はさらに深くなり、土壌は成熟する。(宮脇昭編『日本の植生』p12)
日本文化の多重構造
第一の画期は、今から約12000年前の縄文文化の成立の時期である。氷河期時代が終わり、気候が少しづつ温暖化してくる中で、日本列島で始めて土器や弓矢が出現し、竪穴式住居が営まれるようになって、旧石器時代に比べて定住性の高い新しい生活様式が生まれてきた。いわゆる縄文文化の誕生である。
この縄文文化は、その文化の特徴-たとえば深鉢型土器、竪穴式住居、弓矢による狩猟、サケマスの河川漁撈の卓越など-、あるいはその文化が東日本のナラ林体に集中することなどの実態から見て、東北アジアの落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)の食料狩猟民の文化と文化生態学的な基盤を共通にして形成されたものと考えられる。
次に第二の画期は、縄文時代前~中期頃に、照葉樹林文化の要素が日本列島の西部に進出してきた時期に求められる。気候の温暖化に伴い、まず採集段階の照葉樹林文化が大陸から伝来してくる。縄文時代前期の鳥浜貝塚から真っ赤な漆塗りの櫛が出土したのをはじめ、漆の利用は各地に広まり、縄文時代後・晩期には精緻な漆芸品が各地で産み出されるようになる。このほか、大陸の照葉樹林帯から導入されたと考えられるヒョウタンやエゴマや豆類などの小規模な栽培や、野生のサトイモや彼岸花の半栽培などが始められたものこの縄文時代前~中期頃からであり最近では栽培稲の痕跡も発見されて始めている。
さらに縄文時代の後・晩期には、焼畑段階の典型的な照葉樹林文化が伝来し、西日本の地域に展開したと考えられる。作物や焼畑雑草炭化種子、イネ科の作物のプラントオパールや花粉の分析などにより、最近ではそのことが次第に明らかになってきた。それとともに照葉樹林文化を構成する文化的な諸特色-っとえば漆芸や絹や竹細工、茶や麹酒mナットウやモチ性食品、儀礼的狩猟や歌垣や山上他界の習俗、山の神の観念や昔話など-多くが日本列島に渡来してきたと考えられる。それらの大部分が現代にまで伝承され、日本の伝統文化の中に深く根を下ろしていることはよく知られるとおりである。
第三の画期は、縄文時代の末あるいは弥生時代の初めに水田稲作農耕とその文化が日本列島に渡来した時期である。この時期には寒冷適応した長身。面長のいわゆる北アジア系の人たちが渡来し、朝鮮半島から水田稲策という新しい農耕技術や金属器文化、およびそれに伴う新たな文化的な価値体系が伝えられた。小国家を産み出すような宗教的・政治的統合原理をはじめ、稲作に伴う儀礼の体系や新しい信仰や世界観などが、このとき伝えられたようである。その後の日本文化の原型を形成したといわれる弥生文化は、土着の縄文文化の上にこうして新しい文化的要素が加わって成立したものと考えられる。そのほか、長江下流域や江南地方からも直接日本列島に伝えられた文化の流れがあり、また琉球列島を種とする南島の島々を伝わって北上してきた文化の流れのあったことも見落としてはならない。
なお、第二の画期のころからこの時期にかけて、北東アジアのナラ林帯から、サハリン・北海道ルートや日本海横断ルートあるいは朝鮮半島を経由するルートなどを経て、北方系の作物群(北方系のアワ・キビやW型のオオムギ、ゆう麦型のエンバク、洋種系のカブなどのほか、アブラナ類やゴボウやアサその他)で特徴付けられる畑作文化、つまり農耕段階のナラ林文化が日本列島に渡来したことも指摘しておかねばならない。
このようなプロセスを経て日本列島における基層文化が形成されてきたが、最後に四~五世紀頃の巨大古墳が形成される時期に、主として朝鮮半島から支配者文化のいくつかの重要な特色の伝来が見られた。私はこの時期を第四の画期としているが巨大古墳の築造に見られる強力な政治的権力の出現や「天孫降臨」神話をはじめ、多くの「記紀」神話に象徴される支配のイデオロギー、そのほ日本列島における支配者文化のいくつかの特色が、この時期に主として朝鮮半島から取り入れられたと考えられる。佐々木高明著『照葉樹林文化とは何か』p177
古代文明誕生の契機としての気候変動
1980年以来、私はギリシア、トルコ、シリア各地の花粉分析の調査研究に従事してきた。ギリシアやトルコ、シリア各地の湿原にボーリングを行い、堆積物を採取し、その中に含まれている花粉の化石を分析する根気の要る作業を続けてきた。その結果、一つの重大な発見があった。それは古代文明が誕生した5700年-4500年前は、地球上の中では特筆すべき気候変動期に相当していたと言うことである。
暦年代7000-5700年前の地球の気候はクライマティック・オプティマム(気候最適期)とよばれる高温期だった。地球の年平均気温は現在より2~3度高かった。このため極地の氷河も溶け、海面も上昇して、当時の日本列島では縄文海進によって、関東平野や濃尾平野などの沖積平野の大半は海底に没していた。
ところがこの高温期は5700年前に終わり、気候は急速に寒冷化する。この気候の寒冷化によって、北緯35度以南の北半球の温帯~亜熱帯の地方は、乾燥化が進行した。この気候の乾燥化によって、大河のほとりに人々が水を求めて集中した。もともと大河のほとりにには農耕民が生活していた。気候の乾燥化によって大河のほとりに水を求めて集まってきた人々は、牧畜を生業の主体とする人々であった。なぜなら牧畜民は農耕民よりも乾燥したところで生活していたために、この気候の乾燥化の影響を最も強く受けたからである。
この気候の乾燥化を契機として大河のほとりに人口が集中し、牧畜民と農耕民の文化の融合がきっかけとなって古代文明が誕生したのではないかと言う仮説を私は提示したのである。事実、ナイルのほとりでは、乾燥化によってナイルの川の水位が低下する時代にピラミッドの建造が始まっている。ピラミッドの建造は、気候の乾燥化によって大河のほとりに集中してきた余剰労働力を消化するために始まったのではないかというのが、私の仮説でもある。大河のほとりへの人口の集中は余剰労働力の提供のみではなく、情報量を増大させ、牧畜民と農耕民の文化の融合は新たな技術革新や社会や生活様式の多様化をもたらす。これが古代文明誕生の第一歩であったと私はみなしたのである。したがって、5700~4500年前の気候変動期において、類似した気候の寒冷化と乾燥化が進行した北緯35度以南の大河の中・下流域では、多元的にどこでも文明誕生の契機があったはずであるというのが私の古代文明誕生多元説なのである。
フランス料理とその外延
これまで主に食材やその調理の仕方、そのサーヴィスのあり方を中心にフランス料理を見てきたが、これだけではフランス料理は完成しない。料理人たちの人間関係や、料理人と彼らの雇い主との関係、さらには、より大事な要素として、誰に食べてもらうかという問題もある。王侯貴族が臣下や友人、国内外のお客に食べてもらうこともあるし、一般人が家庭に客を招待して、自ら又は雇った料理人に作らせてもてなす場合もある。あるいは、レストランで金を支払って料理とサーヴィスを提供してもらうこともある。
これらの人間関係の外側には、料理人に食材を供給する流通網、食器つくりとその供給者、インテリア関係者など、幾重もの社会関係が広がっている。フランス料理を徹底的に理解するにはそこまで読み込まなければならないが、それは容易なことではない。といっても、フランス料理は目配りを出来るだけ広げようとしている料理であり、この目配り=心配りということは、千利休以来のお茶席や会席料理の伝統を持つ日本人には理解しやすいはずである。湯浅赳男著『フランス料理を料理する』p153
オーブンと蒸籠
食物の加熱方法は多様だが、料理として洗練されていく過程で一つの加熱方法が特に重要な役割を果たしてゆくようになることから、料理史のタイプを分類するときそれが最も重要な要素であると私は考えている。
すなわち、ユーラシア大陸の西側ではオーブン=パン焼き用窯であり、東アジアでは、コシキ=蒸篭となる違いである。
人類が食物の加熱することを知ったときの方法はまず直火焼き(グリル)、次に熱灰や熱した土に埋めて焼く、容器が生まれると焼き石を入れて水を沸騰させてモノを煮るといったものだったろう。
東アジアでも西アジアでも、穀物はまず水で煮られることになる。東では、アワ、キビ(後には米)など雑穀が煮られ、西でも麦が水にされ、要するにカユとして食べられたのである。共通しているのはここまでで、これから東西は違った料理法を発達させることになる。なぜなら、初期の焼き物は土臭くて食物の味を損なったから、別の方法が求められたのであって、それが西ではパン焼き窯、東ではコシキ=蒸籠だったのである。なお、麦をいって粉にして食べる方法もある。
なぜこのようになったのか。まず東側の雑穀は夏物の作物で、脱穀して、さらに麦芽をそのままとりだすことができ、それをカユにしてもよいが、土気を嫌うので、土器で水を沸騰させ、その蒸気で穀物を蒸して食べることになった。その道具がコシキである。
西側の麦は冬作の作物で、脱穀して、麦芽を取り出そうとすると砕けて粉々になってしまうのでこれを粉にして水で練って、窯を作って間接熱で焼くという方法がとられた。パンの誕生である。湯浅赳男著『フランス料理を料理する』p59
持続可能な食料としての米と魚
安田 牛肉1トンをつくるのに小麦が12トン必要という話が出ましたが、1トンの小麦を作るのに、だいたい1000トンの水がいる。つまり1トンの肉に1万2000トンの水がいるわけですね。地球の水資源を考えると、中国の13億人の人間が今の日本人並の肉を食える水資源はないのです。
石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p213
石 21世紀は、世界のどこが一番発展するかというと、僕は亜熱帯モンスーン地域だと思っています。その理由は、水という制約条件が非常に低いからです。同地域は年間の降水量が基本的に多いので、コントロールさえすれば水に困らないわけですよ。
安田 でも、乾季があるでしょう。
石 だから水を溜めておくシステムが必要なんです。
それともう一つは、安田さんが言うように米と魚ですよね。米は最も持続的な農業であり、魚は最も持続的なタンパクの供給源です。「持続性」の文化の中に内在させてきたのは、やはり亜熱帯モンスーン地域しかない。石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p220
石 (単位)
戦国大名の財力や兵力をも意味していた石高が、人を養っていけるエネルギー量(米の量)から換算された単位だというのは、興味深い。
前近代では、一人の人間が生きていくために必要なエネルギー量にそれほど大きな差はなかった。
そのため、保持しているエネルギー量が、そのまま経済力、兵力として換算できたのだろう。
1石は下位単位では10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当する。米1合がおおむね大人の1食分とされているので、1石は社会構成員1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見なされ、示準として換算されてきた(365日×3合/日=1095合。ただし、東アジアで広く使われていた太陰太陽暦では1年の日数は年によって異なる)。
なお、現在、生産力が増加した結果、一反での米の収穫量は、3.5石(522kg=約3500合)である。
「1反」は、約10アール=1000㎡。
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事業組合の開設
昨年から、準備して来た地方の農産物の販路を開拓するための事業組合が動き始めた。僕以外に、経験豊富な起業家4名がメンバー。こちらも、貢献出来る様に、働かねば。とりあえずは、ある品物のパッケージを含むデザイン、組合のためのウェブサイトの開設とデザイン、になりそうです。
四谷アート・ステュディウム-建築農業工作ゼミについて②
少なくともぼくらにはふたりの自分がいる。そうオツムとカラダだ。カラダ。泣いて生まれ食って寝て、泣いてもがいて死んでいく。お別れだ。それが運命。それが自然法則。物質循環。エントロピー。巻き戻せない時間の流れ。宇宙の原子への帰還。動物、霊長類、自然的存在としてのぼくらのことさ。 Read more »
四谷アート・ステュディウム-建築農業工作ゼミ①
四ツ谷にある四谷アート・ステュディウムっていう美術学校で講師しています。いろんな人からすすめられて、ぼくもゆる~くさえずってみることにした。けれど、ゆる~くさえずる、なんてこと、鳥たちはしない、たぶん。だから、これは人ならではの奇妙なふるまいのひとつってことになる、さえずりは。芸術も生活もなんやかんやでてんやわんや。おかげでなにがなにやらてんてこまい。いやはやまったくまいった。さてとこれからどうする? 迷うくらいなら途なき途を往け、きみの往った後にはぱっくり開けた深い亀裂が走っていたということさ。 Read more »
AとBの起源-牛と家
現在の「A」はセム語の「アレフ」、つまり牛からきており、セム人はヒエログリフの「牛の頭」にあたる文字をあてました。同様に「B」は、「ベート」つまり「家」で、ヒエログリフの「家」に当たる文字をあてました。アルファベットはこの最初の二文字をを合わせた言葉です。これら原シナイ文字アルファベットは、フェニキア文字に発展し、ギリシャ文字やラテン文字、そして現在のアルファベットへと発展したのです。一方フェニキア文字はアラム文字となり、アラビア文字、インド、チベット、満州文字へと発展し、朝鮮のハングル文字にまでその影響が及んでいるということです。(吉島重朝著『印刷よもやま話』P8)
生活の基礎として「衣食住」といわれますが、食に関わる牛と住に関わる家は、アルファベットの最初の二文字、AとBの起源にもなっているらしい。
食と花の新潟市産直広場in板橋
日曜日に、食農協会の梅津さんに誘われて、東上線大山駅前商店街で行われていた「食と花の新潟市産直広場in板橋」に行く。大山駅前の商店街は、よくある私鉄の駅前商店街とは違って、人通りが多くかなり活気がある。出店を出すには、魅力がある場所である。この出店は、新潟市が企画し、市内の農家の方々が、自分たちが生産した農産物や加工品を販売するというもので、市が地元の産業の広告活動のために行っているのだという。よく見ると、その日の帰りに乗った山手線の車体にも、新潟市の広告が貼り付けられている。これまで、地方行政の広報活動について、意識して見ていたわけではないが、地方行政による広報活動が必要とされるのも、時代の流れなのだろう。これまで、建築土木の公共事業で各地方に等しくお金が廻る仕組みがあったが、いよいよその仕組みも終わりを迎えつつある。「地方分権」という形で、国から各地方に等しくお金が分配されなくなれば、地域間に格差が生まれる。そこで、地方行政は、地域の生き残りをかけて、地元産業の育成する必要がある。新潟は、大量消費地・東京に近い産地、という地の利を生かして、農業を育成していくべき地元産業のひとつとして位置づけているのだろう。 Read more »
桃花村の農産物
農事組合法人桃花村遅くなりましたが、先日のブレスパッセージで買った田中泯がなさっている桃花村で作ったトマトと番茶(極上)の写真です。価格は、それぞれ以下の通り。 Read more »
ねこと農耕
愛玩用家畜として同じく一般的なイヌ(Canis lupus familiaris)に比して、ネコは飼育開始の時期が遅いが、これは家畜化の経緯の相違による。イヌは狩猟採集民に必要とされたため、早い時期から人の社会に組み込まれ、狩りの伴侶、外敵への備え、幼子の保護者となった。しかしネコは、農耕の開始に伴い鼠害が深刻にならない限り有用性が無く、むしろ狩猟者にとっては競合者ですらあった。その競合的捕食動物が人のパートナーとなり得たのは、穀物という「一定期間の保管を要する食害を受けやすい財産」を人類が保有するようになり、財産の番人としてのネコの役割が登場した事による。農耕が開始され集落が出現した時期、中近東周辺で、山野でネズミやノウサギを追っていたネコがネズミが数多く集まる穀物の貯蔵場所に現れ、中には棲みつくものもいたのが始まりと考えられている(リビアヤマネコの生息地と農耕文化圏が重なった地域で、複数回起こっていたと考えられる。時期は特定されていない。 穀物には手を出さず、それを食害する害獣のみを捕食する事から、双方の利益が一致。穀物を守るネコは益獣として大切にされるようになり、やがて餌付けから家畜化に繋がった。(ウィキペディア「ねこ」より)
今では、どこでも見かける猫ですが、人間がねこを飼うようになるきっかけが、「財産の番人」だったとは知らなかった。豚や牛は人間の食料になったけど、猫は「財産の番人」という役割で、人間に食べられる側ではなく、人間から食べ物を与えられるペットになったわけだ。身近な動物である猫にも、歴史が刻み込まれていることに気づかされた。なかなか面白い話だと思った。