近代建築の運命は、近代建築自らが戦略上自主的に合理化の理念を担ったときに決定された。そこでは広範囲な政治や労働者階級の問題は、考慮の外にあった。合理化という命題が、歴史的必然を持つものであることはうなずけるが、近代建築がそれを目指したとき、もう先は見えていた。合理化という題目を必死に守る建築家たちを待ち受けていたのは、空しさ以外の何ものでもなかったのだ。<空しさ>というのは、監禁され、出口なしの状態にありながら、いくら脱出を計っても無益だということである。近代建築の危機は、<疲労>や<消耗>の結果では決してない。それはむしろ建築が、イデオロギーレヴェルで有効に働きえなくなったということを意味するものなのだ。近代建築の<失墜>は、そのブルジョア的な両義性を否応なく露呈してきたことにその原因がある。すなわち近代建築は、絶えず、それ自体としての<積極的>な意思と、その情け容赦ない商品化という両極に引き裂かれてきたのだ。もはや近代建築にはいかなる<蘇生力>もない。それは、ついに何も語ることのない多重なイメージの迷宮をあてどなくさ迷うこともなく、また、幾何学の、おのが完璧さに自足した沈黙のなかに閉じこもることもない。かくして、建築だけに限った範囲で、その取るべき道を云々して見たところで、無益なのだ。社会構造がそもそも建築デザインの性格を条件付けるのであるからして、その中で取るべき道を主体的に探るということはあり得べくもないことなのだ。建築に向けられる批評は、そもそも建築それ自体に<具体化された>イデオロギーへの批評なのであって見れば、単なる建築の問題を超えて、ついには社会構造そのものの問題へと行き当たらざるを得ない。そこにいたって初めて-つまり、建築という単なる一分野でものを考えようとする発想が乗り越えられたときに-、資本主義の新しい発展形態を模索する上での、技術者の新しい役割、建築生産活動をオルガナイズするものの新しい役割、プランナーの新しい役割について考えることが有効になるし、さらに、建築のような技術的で知的な労働が階級闘争にかかわる上での、避け難い対立を体験することもありうるのである。資本主義の発展に絡むイデオロギーについての、様々な角度からの批評は、それゆえ、広く社会全般に関わるための第一歩なのである。そして今日、こうしたイデオロギー批評の主要な任務といえば、ばかげた、役立たずの神話-<デザインへの期待>という時代錯誤をいまだに許している神話-を根こそぎにすることにほかならない。(マンフレッド・タフーリ著『建築神話の崩壊』P209)
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