精神にあるさまざまな制約を研究するうちに、私の問題意識はカントの思想に似てきた。しかし結論を同じくするわけではなかった。民俗学者は哲学者と異なり、自分の思考とか自分の社会や時代の学問の行使条件を考察の原理にして、局地的に確認された事項を、その普遍性が仮想であり仮説に過ぎないある一つの悟性へと広げそうとはしない。同じ問題に直面するが、民族学者は二重に逆の方法をとる。普遍的悟性という仮説よりは特性がいわば凝固し、無数の具体的表象体系によって提示されている、集団的悟性の経験的観察のほうを好む。ある社会環境、ある文化、ある地域、ある時代の人間である民族学者にとって、これらの体系は、ある部門において可能な変奏の全範囲を示しているのであるから、民族学者は逸脱の最も目立ついくつかの体系を選ぶ。これらの体系を民族学者自身の言葉に翻訳し、またその逆の翻訳も行う際に課される方法上の様々な規則が、共通の根本的制約の網をはっきりと見せてくれると期待しているからである。これは考察に課される訓練における最高のトレーニングである。訓練は客観的極限に達し(というのは、扱わねばならないのは民族誌の調査によって見つかり、整理分類されたものだからである。)ひとつひとつの筋肉と骨と骨のつながりを盛り上がらせて、全身の解剖学的構造の輪郭をあらわに示してくれる。
クロード・レヴィ=ストロース『生のものと火をとおしたもの』p18
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