自然の暗喩としての神話的思考

複数のレベルがあるということは連続的なものが離散的になるために、神話的思考が支払った代償のように見える。神話的思考は経験的多様性を単純化し、秩序付けねばならない。単純化と秩序付けの原則は、多様性のいかなる要素も意味作用という集団的企てにおいて、身勝手な行動をすることが許されず、同じ箱に分類された他の要素の、習慣的なあるいはたまたま行われる、代理としてしか行動できないということである。神話的思考は自然を繰り返し語れる場合にしか自然を受け入れない。また神話的思考は、自然に自然を意味しうる形式的特長をしか採用しない。したがってその特徴には暗喩になる宿命がある。だから神話から特権的な意味論的レベルを取り出そうとするのは無駄であって、神話をそのように扱うと、つまらない話しになってしまうか、取り出したと思ったレベルが相変わらずいくつものレベルを持つ、ある体系の中の自分の場所に勝手に戻っているであろう。そのときはじめて、部分はその役割を果たすに相応しいある全体を使ってなされる、比喩による解釈に服すということが見えてくるであろう。暗黙のうちになされるある一つの提喩が、その部分を全体から取り出していたのであり、神話の雄弁ないくつモノ暗喩が意味するという任務をその全体に送り返しているからである。

クロード・レヴィ=ストロース著『生ものと火をとおしたもの』p473

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