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関空人工島の地質構造

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埋め立てによる海底地盤の圧密沈下(関西空港)

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加工された地形としてのコンクリート構造物

アルカリ骨材地図

中央構造線/糸魚川静岡構造線

中国と日本の岐路を別けた外圧

中国における南京条約一天津条約(一八五八年)・北京条約(一八六〇年)の系列と、日本における神奈川和親条約・江戸通商条約(一八五八年)・改税約書(一八六六年)に至る系列とに現われた欧米諸列強の外交意図の根本方向は同じであった。
彼が究極において求めたところは、開港であり、外交使節の交換であり、封建支配者の干渉なき自由貿易の確立であった。しかもそれは彼我平等の関係ではない。中国でも、日本でも、いずれも片務的な、領事裁判権(この結果外人は治外法権を獲得した)・協定関税率(税率は相手方の同意なくして改定できず、すなわち関税自主権をもたず、その結果きわめて低率に釘づけされた)・最恵国条款(双務的でなく、もっぱら外国側の利益の均霑のみを規定す)を強要された不平等条約であった。それは日本ならびに中国の国際的地位を、欧米資本主義の半植民地的市場として決定したものであった。
かかる外圧にたいする中国ならびに日本の支配者の対抗の姿勢も同質のものであった。彼らは共に自己の支配の必須条件として、鎖国政策を固持してゆくことを念願してはいたが、当面外国を撃攘するだけの武力をもたなかったために、便宜的手段として開国を受諾した。しかも一旦取り結んだ条約の実施を極力延期あるいは制限しようと努力し、その結果、外国との間に種々の外交紛争を頻出した。しかも幕府・清朝の支持煽動を陰に陽に受けて、攘夷運動が激発し、ために欧米列強との間に、幾度か武力衝突が起った。中国では第一次・第二次英仏連合戦役(一八五八・六〇年)、日本では薩英戦争(一八六三年)、四国連合艦隊下関攻撃事件(一八六四年)。かくて上述の並行的な外交推移の結末として、これまた時を同じくして中国の同治中興、日本の明治維新が出現した。それは共に封建支配者がこれまでの排外主義を緩和ないし転換して、外国勢力と妥協・結合することによって、政治改革を企てたものであった。このような表面的経過の類似にもかかわらず、中国と日本との間に国家統一の様相、近代的転化(資本主義化)の速度に、大きな相違を生じた。これは、まごうかたなき事実である。その差は、中国が経済的のみならず、政治的にも次第に欧米列強の半植民地化するコースに入り込んでいったのに反し、日本が一応政治的に独立を維持しえた違いに最も端的にあらわれていた。そしてまた同治中興と明治維新との、改革としでの深さの比較にならぬ相違をもたらしたのである。この大きな岐路の原因はどこに求むべきであろうか。
 イギリスの対日政策は、対中国政策と不可分の関係にあって遂行されていたにもかかわらず、事実は、中国にたいした場合に比較して、より緩和された性格のものとしてあらわれた。それは第一には、中国との紛争に極東のイギリス軍事力の大部分が注がれたため、日本に大規模の武力行使を敢てする余裕をもたなかったこと。第二にインドおよび中国での民衆の素朴ではあるが根強い民族運動の反抗を惹き起し(一八五一-六四年の中国の太平天国の乱、五七年のインド土民兵の反乱)、その結果は、彼らの本来の目的である市場開拓が阻害されるに至り、この体験が彼らの対日外交政策をきわめて慎重かつ消極的たらしめたこと。すなわち「既存の政府が代表し統制している力と秩序との諸要素があるのを尊重する」態度に出でしめたこと。
(遠山茂樹著『明治維新』p45)

温帯性果樹の二大中心地

A 西部原生種群
(欧州束南部、西アジア、ペルシア)
1 革 果(リンゴ)Malus pumila
2 洋 梨    Pyrus communis
3 甘果桜桃   Prunus avium
4 酸果桜桃   Prunus cerasus
5 欧洲李    Prunus domestica
6 欧洲李    Prunus insititia
7 欧洲栗    Castanea sativa
8 アーモンド  Prunus communis
9 欧洲葡萄   vitis vinifera
10 無花果    Ficus carica
ll メドラー   Mespilus germanica
12楷枠(マルメロ)Cydonia oblonga
13胡桃(クルミ)Jugulans regia
14 石榴(ザクロ)Punica granatum
他に須具利、房須貝利、木苛、榛

B 東部原生種群
中国(朝鮮、日本を含む)
1 中国梨    Pyrus ussuriensis
2 日本梨    Pyrus serotina
3 山桜(サンザシ)Crataegus pinnatifida
4 桃      Prunus persica
5 日本李    Prunus salicina
6 杏(アンズ) Prunus armeniaca
7 梅      Prunus mume
8 甘 栗    Castanea monisima
9 日本栗    Castanea crenata
10 柿    Diospyros kaki
11 東(ナツメ)Zizyphus sativa
12 枇 杷    Eriobotrya japonica
13 柑橘類    Citrus spp.
他にワリンゴ、中国桜桃
菊池秋雄(1948)

この表をみると直ちに明らかになることは、現在の温帯性果物のほとんど全部がこの表の中に含まれていることである。この表がこのような簡単な形にまとまるまでには、多くの植物学者の研究の結果がある。例えばモモは学名はプルヌス・ペルシカとなり、ペルシア原産と初めは考えられていたが、中国原産(険西、甘粛)であることがその後判明した。同じくアンズはプルヌスーアルメニアーカという学名で、アルメニア原産と初めにされたが、それも中国原産であることが判明した。カキはデイオスピロスーカキ(日本語からとった)、ビワはエリオボトリアージヤポニカであるが、両者ともに中国揚子江付近の原産とされている。
 温帯性果樹がこのように、はっきりした二つの群れに分けうるということは何を意味しているのであろうか。西部原生群の果樹は、東欧、西アジアに起源し、西アジア、ギリシア、ローマ、西欧と文明の中心地が変遷しながら、果樹の改良が続けられて、今日のすぐれた品質になったものである。それは全く、西洋文明、西洋文化の発達変遷そのものである。これに対して、東部原生群の果樹は中国文明の中に生まれ、その中で育ち、発展してきたもので、朝鮮、日本までを含んで、それは全く中国文明、中国文化がつくりあげたものである。
 東部原生群と西部原生群の二つのグループの果樹を公平な目で比較してみると、それはだいたいその価値として相等しいとみてよいだろう。このことは果樹に関しては中国文化は独力で、全西欧と匹敵する成果をあげたことを意味することと言えよう。中国文化がこのように、全西欧の文化に対等なものとなっているのは、この果樹についてはきわめてはっきりした事実である。
中尾佐助著『料理の起源』p200

イギリスを覇権国に導いた条件

イギリスの経緯はより単純だった。イギリスには一つの中心、15世紀になって速やかに経済と政治の中心となったロンドンしか存在しなかった。ロンドンは、同時に、イギリス市場をロンドンの便宜に、それゆえ、その地の大商人の便宜に合わせる形で作り上げていった。
他方、島国であったおかげで、イギリスは独立性を保ち、外国資本主義の干渉から逃れることが出来た。1558年のトーマス・グレシャムによるロンドン取引所の開設は、アンヴェルスにとって青天の霹靂であったし、1597年のスタールホッフの閉鎖によるそれまでの「客」への特権の廃止は、ハンザ同盟の諸都市に、有無をいわせぬものだった。1651年の最初の航海条例は、アムステルダムを驚かせた
この時代、ヨーロッパの交易のほとんどはアムステルダムに牛耳られていたのだが、イギリスは、それに対抗しえる手段を持っていたのだ。オランダの帆船は、風向きの関係で、つねにイギリスの港への寄港を余儀なくされていたからである。オランダが、他の国に対して絶対に認めなかった保護貿易主義的な措置を、イギリスに認めたのは、おそらくそのためであったに違いない。いずれにしても、イギリスはこうして、その国民市場を守り、そして、ヨーロッパの他のどの国にもまして、新興産業を育成することが出来たのである。イギリスのフランスに対する勝利は、遅々としたものだったが、かなり早い時に(私見では、1713年のユトレヒト条約の時点)に始まり、1786年(イーデン条約)にはまぎれもないものとなり、そして、1815年に最終的な決着を迎えたのだった。

フェルナン・ブローデル著『歴史入門』p127

プレートテクトニクス

貝塚爽平著『日本の地形』p6

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変動地形と火山の分布

貝塚爽平著『日本の地形』p62

地層の断面

阿寺断層

まず、飛騨高地と両白山地には、北西-南東方向と北東-南西方向の二系統の横ずれ断層が格子状に発達しているが、北西-南東方向の主要な断層は三つほどあり、すべて左ずれ断層である。
このうち、もっとも東にあるのは阿寺断層で、前記のように断層崖の比高が600-900メートルもあるが横ずれ成分はさらに大きいことが知られている。

貝塚爽平著『日本の地形』p72

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褐色土壌の発達順序

土壌
土壌とは、岩石の風化物・生物の遺体やその分解物(腐食)が混じりあった、土地の表層部である。植物は、ここに根を下ろして生育している。

土壌の発達
土壌は、はじめから陸地の表層に存在したものではない。岩石が風化し、植物が生育するにつれて、作られてきたものである。1例として、日本の森林地帯に広く分布する褐色森林土壌について、土壌発達のあとをたどってみよう。
図2の1は、母岩(C層)が露出している状態である。表層には、地衣類・コケ類が生育しているだけである。母岩の風化が進み、陽性植物が進入すると、表面に植物遺体の堆積層(A0層)が形成される。植生の繁茂が続き、母岩が、根によってさらに細かく、深く砕かれると、A0層の下に、有機物の黒い層(A層)が出来上がり、さらにその下に、有機物の含まない茶色の層(B層)が分化してくる。十分に発達した土壌では、A層・B層はさらに深くなり、土壌は成熟する。

(宮脇昭編『日本の植生』p12)

永続性の高い森の文化

6000年前の縄文人の季節を核とする循環系の生活リズムは、この若狭町に限らず、高度経済成長期以前、日本の山村が崩壊するまで、山村の人々の生活の中に普通に見られたものである。温帯の落葉広葉樹の森の文化として出発し、その森の生態系に適応を深めていく中で発展を遂げてきた縄文文化の伝統は、弥生時代の稲作の伝播によっても、著しい断絶をこうむることなく、つい最近まで日本の山村の人々の生活の中に受けつかがれてきた。
(安田喜憲著『稲作漁労文明』p13)

東アジアにおける稲作の展開と日本への稲の伝播


(佐々木高明『日本文化の基層を探る』p96)

日本文化の多重構造

第一の画期は、今から約12000年前の縄文文化の成立の時期である。氷河期時代が終わり、気候が少しづつ温暖化してくる中で、日本列島で始めて土器や弓矢が出現し、竪穴式住居が営まれるようになって、旧石器時代に比べて定住性の高い新しい生活様式が生まれてきた。いわゆる縄文文化の誕生である。
この縄文文化は、その文化の特徴-たとえば深鉢型土器、竪穴式住居、弓矢による狩猟、サケマスの河川漁撈の卓越など-、あるいはその文化が東日本のナラ林体に集中することなどの実態から見て、東北アジアの落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)の食料狩猟民の文化と文化生態学的な基盤を共通にして形成されたものと考えられる。
次に第二の画期は、縄文時代前~中期頃に、照葉樹林文化の要素が日本列島の西部に進出してきた時期に求められる。気候の温暖化に伴い、まず採集段階の照葉樹林文化が大陸から伝来してくる。縄文時代前期の鳥浜貝塚から真っ赤な漆塗りの櫛が出土したのをはじめ、漆の利用は各地に広まり、縄文時代後・晩期には精緻な漆芸品が各地で産み出されるようになる。このほか、大陸の照葉樹林帯から導入されたと考えられるヒョウタンやエゴマや豆類などの小規模な栽培や、野生のサトイモや彼岸花の半栽培などが始められたものこの縄文時代前~中期頃からであり最近では栽培稲の痕跡も発見されて始めている。
さらに縄文時代の後・晩期には、焼畑段階の典型的な照葉樹林文化が伝来し、西日本の地域に展開したと考えられる。作物や焼畑雑草炭化種子、イネ科の作物のプラントオパールや花粉の分析などにより、最近ではそのことが次第に明らかになってきた。それとともに照葉樹林文化を構成する文化的な諸特色-っとえば漆芸や絹や竹細工、茶や麹酒mナットウやモチ性食品、儀礼的狩猟や歌垣や山上他界の習俗、山の神の観念や昔話など-多くが日本列島に渡来してきたと考えられる。それらの大部分が現代にまで伝承され、日本の伝統文化の中に深く根を下ろしていることはよく知られるとおりである。
第三の画期は、縄文時代の末あるいは弥生時代の初めに水田稲作農耕とその文化が日本列島に渡来した時期である。この時期には寒冷適応した長身。面長のいわゆる北アジア系の人たちが渡来し、朝鮮半島から水田稲策という新しい農耕技術や金属器文化、およびそれに伴う新たな文化的な価値体系が伝えられた。小国家を産み出すような宗教的・政治的統合原理をはじめ、稲作に伴う儀礼の体系や新しい信仰や世界観などが、このとき伝えられたようである。その後の日本文化の原型を形成したといわれる弥生文化は、土着の縄文文化の上にこうして新しい文化的要素が加わって成立したものと考えられる。そのほか、長江下流域や江南地方からも直接日本列島に伝えられた文化の流れがあり、また琉球列島を種とする南島の島々を伝わって北上してきた文化の流れのあったことも見落としてはならない。
なお、第二の画期のころからこの時期にかけて、北東アジアのナラ林帯から、サハリン・北海道ルートや日本海横断ルートあるいは朝鮮半島を経由するルートなどを経て、北方系の作物群(北方系のアワ・キビやW型のオオムギ、ゆう麦型のエンバク、洋種系のカブなどのほか、アブラナ類やゴボウやアサその他)で特徴付けられる畑作文化、つまり農耕段階のナラ林文化が日本列島に渡来したことも指摘しておかねばならない。
このようなプロセスを経て日本列島における基層文化が形成されてきたが、最後に四~五世紀頃の巨大古墳が形成される時期に、主として朝鮮半島から支配者文化のいくつかの重要な特色の伝来が見られた。私はこの時期を第四の画期としているが巨大古墳の築造に見られる強力な政治的権力の出現や「天孫降臨」神話をはじめ、多くの「記紀」神話に象徴される支配のイデオロギー、そのほ日本列島における支配者文化のいくつかの特色が、この時期に主として朝鮮半島から取り入れられたと考えられる。

佐々木高明著『照葉樹林文化とは何か』p177

地殻変動アニメーション 平成23年東北地方太平洋沖地震

古代文明誕生の契機としての気候変動

1980年以来、私はギリシア、トルコ、シリア各地の花粉分析の調査研究に従事してきた。ギリシアやトルコ、シリア各地の湿原にボーリングを行い、堆積物を採取し、その中に含まれている花粉の化石を分析する根気の要る作業を続けてきた。その結果、一つの重大な発見があった。それは古代文明が誕生した5700年-4500年前は、地球上の中では特筆すべき気候変動期に相当していたと言うことである。
暦年代7000-5700年前の地球の気候はクライマティック・オプティマム(気候最適期)とよばれる高温期だった。地球の年平均気温は現在より2~3度高かった。このため極地の氷河も溶け、海面も上昇して、当時の日本列島では縄文海進によって、関東平野や濃尾平野などの沖積平野の大半は海底に没していた。
ところがこの高温期は5700年前に終わり、気候は急速に寒冷化する。この気候の寒冷化によって、北緯35度以南の北半球の温帯~亜熱帯の地方は、乾燥化が進行した。この気候の乾燥化によって、大河のほとりに人々が水を求めて集中した。もともと大河のほとりにには農耕民が生活していた。気候の乾燥化によって大河のほとりに水を求めて集まってきた人々は、牧畜を生業の主体とする人々であった。なぜなら牧畜民は農耕民よりも乾燥したところで生活していたために、この気候の乾燥化の影響を最も強く受けたからである。
この気候の乾燥化を契機として大河のほとりに人口が集中し、牧畜民と農耕民の文化の融合がきっかけとなって古代文明が誕生したのではないかと言う仮説を私は提示したのである。事実、ナイルのほとりでは、乾燥化によってナイルの川の水位が低下する時代にピラミッドの建造が始まっている。ピラミッドの建造は、気候の乾燥化によって大河のほとりに集中してきた余剰労働力を消化するために始まったのではないかというのが、私の仮説でもある。大河のほとりへの人口の集中は余剰労働力の提供のみではなく、情報量を増大させ、牧畜民と農耕民の文化の融合は新たな技術革新や社会や生活様式の多様化をもたらす。これが古代文明誕生の第一歩であったと私はみなしたのである。したがって、5700~4500年前の気候変動期において、類似した気候の寒冷化と乾燥化が進行した北緯35度以南の大河の中・下流域では、多元的にどこでも文明誕生の契機があったはずであるというのが私の古代文明誕生多元説なのである。

安田喜憲著『大河文明の誕生』p25

日本橋川1

「海の牧畜民」による支配としての植民地

安田 僕はインド・ヨーロッパ語族の爆発的な拡大を考えたときに、「海の牧畜民」という言葉を使おうと思っています。つまり、かつて漁撈民は巨大な海を支配して交易をしていても、必ずしも植民地的な支配はやらなかった。ところが、ヨーロッパから出かけていったインド・ヨーロッパ語族の人々はアメリカやオーストラリア大陸を植民地にし、さらにアジアにもかなりの植民地を持ちました。そうした思想の原点がどこにあるかというと、結局インドヨーロッパ語族が牧畜民の文化をずっと持っていたところに行き着くわけです。牧畜民は、移動することによって新しい植民地をつくっていく。
ギリシャもインド・ヨーロッパ語族が拡大し、文明を作った国家ですが、彼らはやはり巨大な仕組みを地中海世界に作り始める。なぜギリシャ文明があのように大量の植民都市をつくったというと、もともと牧畜民であったインド・ヨーロッパ語族の一派であるドーリア人がやってきて、彼らが森の中で船を作る技術をマスターし、海へ出たからだと思います。
陸上の牧畜民の子孫が、海の先に作ったのが植民地だった。漁撈民は昔から海に接して海洋を自由に動き回っていても、決して巨大な植民地を作らなかったわけです。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p192

持続可能な食料としての米と魚

安田 牛肉1トンをつくるのに小麦が12トン必要という話が出ましたが、1トンの小麦を作るのに、だいたい1000トンの水がいる。つまり1トンの肉に1万2000トンの水がいるわけですね。地球の水資源を考えると、中国の13億人の人間が今の日本人並の肉を食える水資源はないのです。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p213

石 21世紀は、世界のどこが一番発展するかというと、僕は亜熱帯モンスーン地域だと思っています。その理由は、水という制約条件が非常に低いからです。同地域は年間の降水量が基本的に多いので、コントロールさえすれば水に困らないわけですよ。

安田 でも、乾季があるでしょう。

石 だから水を溜めておくシステムが必要なんです。
それともう一つは、安田さんが言うように米と魚ですよね。米は最も持続的な農業であり、魚は最も持続的なタンパクの供給源です。「持続性」の文化の中に内在させてきたのは、やはり亜熱帯モンスーン地域しかない。

石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p220