美術家の北川裕二(Y.K)です。いやはや、生活の細々したあれこれに追われて建築家のM.Tと私のふたりではじめたプロジェクト「Pace Continua」も、このブログでさえ開始してわずか数日で滞ってしまった。全くもって不甲斐ないというほかにない。だが、それも仕方がない。われわれもまずもって生活者の端くれだから。少なくと私は基本的に不安定雇用の身であるので、そこにある仕事を断ることができないし、したくはない。その結果、このプロジェクトはおろか、自身のブロクも、作品制作でさえ、しばらくままならなかった。いや、「われわれ」とひとっからげにして、彼と私を一緒くたにするのはよくない。M.Tに申し訳ない。少なくともM.Tは、コンスタントにPaceのブログをアップしていた。しようとしていた。だのに、私は仕事や日常に追われて、などというつまらん理由を言って、こうしていいわけしている。まったく情けない。これじゃあ、M.Tもプロジェクトから遠ざかるのも当然だ。けれど、仕事に追われたなどとほざいているけれど、むろん財を蓄えたなどということはない。いや、ほんとの理由はそうじゃない。書こうと思えば、書けたのだ。逃げていた?、多分。追われていたのだ。そして今もそうだ。だが、そもそも何に追われているというのか。生活に? じゃあ、その生活の実相とは何だ。私を追い立てているものは、何だ? 私は逃げているつもりでいるのに、この言いようのない暗澹とした閉塞感はなんなのだ。これが「時代閉塞の状況」というやつか。そうかもしれない。そのことについては日を改めて考えてみたい。ひょっとして、これは軽い不安神経症なのか。軽い鬱なのか。神経症のことはよくわからない。が、精神分析のことは、かつてフロイトやラカンや、あるいはそれらの入門書は、ずいぶん前に、けっこうそれなりに読んだはずだが、今こうしてなんとも落ち着かないのだから、読んだ意味が十分に内面化されなかったということになるのか。おそろくそうなのだろう。世の中も変わるが、私もかわる。しかし狂った生活習慣だけは狂いがない。妙なものだ。よくないな、この悪循環は。この円環、すなわち淀んだスパイラル状の動き、この間違った流れによって薄汚い物質がいっぱい滞留してしまっていたようだ。部屋のあちこちや、脳や心や身体に。世界と私を交換させる物質循環の仕組みを新たにデザインして組み換えてやらねばならない。老廃物でつまって捌け口を失ったエネルギーを正しく変換して、エントロピーの増大を減らす必要があるのだろう。むろんエントロピーは増大するさ。正しく廃物、廃熱する必要があるということだ。そんな思いに駆られていた。そもそもそんなわけで始めたはずのこのプロジェクト、休んでばかりもいられない。ようやく動かす気になってきた。というようりも無理にでも動かすぞ。とはいえ、何をすればよいのか。駆け出しの建築家と美術家の端くれがつるんだところで、いったい何ができるというのか。建築も美術も、もうすべてがやり尽くされた。付け足すものは何もない。終わりなき弁証法のように、次から次へと新たなテーゼ(作品)が発明・創造されたのは、いつのことだったか。まったく懐かしい限り。私に身近な過去、そう80年代のそれ、90年代のそれ、そして2000年以後、これまでの世界はどうだったか。空虚な記号(キャラ)の循環があるばかりだったじゃないか。もう、うんざりだと言いたくなる。そんなものにいつまでもしがみついてかまけている暇はないぞ。では、どうする。そして、この先、世界、とでっかくでなくても、暮らしは、営みは、文化・芸術はどんなであるべきなのか。それを、ここで考えてみようじゃないか、まずは。ある文化、文明の黄昏、斜陽の時代、枯れ枝の季節に。
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