邪馬台国時代の鍛冶技術

纏向遺跡ではもともと、鉄で道具をつくる鍛冶生産の痕跡が三世紀後半ごろと、近畿の中でも比較的早い段階から行われていたことを示す鉄斎や送風管・砥石などの遺物が見つかっていました。
平成21年に兵庫県淡路島の五斗長垣内遺跡で、弥生後期にさかのぼる鍛冶関連遺構が大量に見つかりましたので、古さでは纏向はそれほどではなくなってしまったのですが、これまでに纏向遺跡で見つかっている鍛冶関係資料の中に、非常に興味深いものがあることが分かりました。
それは何かといいますと、参照でも触れられたように鉄の塊を鎌や鍬などの製品にする、鍛冶をするときには、鉄を加工しやすくするために炉にふいごで空気を送り込み炉内を高温にします。その送風管の先端部分の断面形状は近畿のものはちくわのような、なかに穴が開いている円形をしています。一方、纏向遺跡から見つかっているものの中には断面形状がかまぼこ型をした、北部九州に見られるタイプのものが含まれており、この送風管の形の分析から、鉄の加工技術には北部九州系の鍛冶技術が導入されたのではないかと言われるようになってきています。

石野博信、高島忠平、西谷正、吉村武彦編『研究最前線邪馬台国』p191

二世紀終わりから三世紀に長大な刀は、ツクシでは伊都国である福岡県前原市上町遺跡から出土しています。また同時期の日本海沿岸の福井県永平寺町乃木山古墳、鳥取県湯梨浜町宮内遺跡からも一メートル前後の刀が出土しています。
奈良県からはまだ出土しておらず、近畿地方で唯一、大阪市東淀川区崇禅寺遺跡から、長いと推定される刀の握りの部分だけが出ています。崇禅寺遺跡は大阪湾の入り口部分、かつて大阪平野には河内潟という大きな潟湖があったのですが、その湖の入り靴のところに位置します。
またさきほど高島さんのお話にありましたように、鉄は九州から圧倒的に多く出土していて、近畿には非常に少ない。京都府北部の丹後地方で、弥生後期から三世紀にかけての京丹後市御坂神社墳墓群などから、かなり沢山の鉄が出てきます。ヤマト説の研究者は丹後を近畿に含めて、それほど鉄器が少ないわけではない、といいますが、奈良・大阪の墓、土器など文化の特色を丹後と被告すると、まったく違います。ですから私は単語を近畿に含めるべきではないと思います。そうしますと、奈良大阪の鉄は非常に少ないのです。
しかし、数年前に行われた三世紀中央のホケノ山古墳の調査で、鉄鏃、銅鏃等の金属製品がそれぞれ74本、70本、あるいは鉄刀剣類が20余本出ており、80メートルクラスの長突円墳にもかなりのの金属器が副葬されていることが分かりました。
ヤマトの鉄は集落遺跡での出土は非常に少ないけれど、墓にはかなり入っている可能性がある。

石野博信、高島忠平、西谷正、吉村武彦編『研究最前線邪馬台国』p70

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