三内丸山遺跡周辺の地形
地形と交通路
パソコン作業中の姿勢
「近くを見続けるパソコン作業は、ピントを合わせるのに重要な役割をする毛様体筋の緊張が続くため、ピント調整つ能力を低下させます。
それだけでなく、パソコン作業中は、まばたきの回数が極端に減ります。
まばたきには実は重要な意味があり、まばたきをすることで角膜が涙で潤い傷や障害から守られているのです。
そのため、まばたきを回数が減ると、ドライアイになりやすくなります。
ドライアイになって涙の分泌量が慢性的に減ると、感染症にかかりやすくなり、視力の低下もまねきます。
こういった状態を防ぐために重要なのはパソコン作業中の姿勢です。まず大事なのが机と椅子の高さ。パソコンを打つとき、ひじが90度以上に保てる高さだと肩や肘、手首に負担がかかりません。
椅子はう座った時に、足首、ひざ、股関節が90度になる高さにし、深く腰掛けて背筋を伸ばしましょう。足がつかないなら台などを置いて調節してください。また、パソコン画面はやや見下ろすような位置に来るように設定するのがベスト。見上げるのような高さに画面があると、目の開いている部分の面積が増え、涙が蒸発しやすくなって、ドライアイを招くためです。
目と画面の間は、40-50cmほど離すのがお勧めです。」
(本部千博著『自分で目をよくする本』p124)
人間の定義としての坐ること
「人間」であるという定義にはいくつもある、その一つが人間以外の動物との比較でみる身体的、機能的な違いである。それは「人間が二本の足で直立しし歩くことが出来るようになったこと、そのために手で体を支える必要がなくなり、同時に両手を自由に使えることで道具を作り、火の作り方を覚え、火を使うようになった。それに脳の発達は、言葉を用い、それによってコミュニケーションを得て人間社会を作る]という見方である。
それだけだろうか。
人間は「二本の足で歩くことが特徴である」と言われているが、それだけではないようである、「立つ」ことよりも「坐る」ことによって、足を休め、手をより自由に上手こ使えるようになったことも今日の文化を生み出した要因ではなかろうか。
「坐る」ことがなければ、今日の文明の発展はみられなかったといっても過言ではありますまい。人間が「坐る」ことを獲得したことは、「立つ」ことを獲得したことよりも更に大きな意味を持つのである。
確かに二本の足で「立つ」ことで「歩く」ことが可能となり、人間の生活環境は、どんどん変わっていった。そして二本の足で「立つ」こと、「歩く」ことの代わりに乗り物、交通機関等、現代文明の発達に繋かってくる。これまで「立つ」ことが人間の特徴と言われてきたが、現代人は、文明の発達により、この「立つ」「歩く」ことの能力を失いつつある。これが二本の脚で「歩く」ことから「坐る」ことの方へ、大きく比重が移りつつあるからではないだろうか。
(森義明著『坐のはなし』)
群れの中での積極性
モノとコトの共立を、どのようにモデル化したらいいのか。まず私は、どうして、モノとコトが既存のモデルで二者択一なのかを考えてみた。
ボイドにおいて、最も基本的であり、自己推進粒子モデルの根幹だった規則は、速度平均化の規則だ。その意味するところは、各個体におけるモノとコトの完全な統合だったはずだ。自由を有し、原理的にパラパラな振る舞いをする個の集よりとして想定されるモノは、個性を押し殺し画一化されることでのみ1個の全 体=コトになる。このモデルの背景には、群れ形成には個性の封印しかあり得ないとする考え方がある。
こうしてモノが封印されたとき、モノとしての性格、個の自由を別な形で補完し表現するものが、ゆらぎであった。自己推進粒子モデルにおける平均化規則とゆらぎの結合は、統合によるモノとコトの両義性の欠如を補う新たな両義性補完機構だったはずだ。
しかし、ゆらぎの導入による新たな両義性の補完が度を超すと、今度は両義性が元論的に展開され、モノとコトとは二者択一となってしまう。モノとコトは、ゆらぎと速度平均化規則に対応づけるかぎり、相容れない、水と油のような関係になってしまうのである。
平均化規則として用意されるコトーこれ自体が、モノ(自ら)と周囲(コト)の統合の結果だった—–は、周囲に対する同調圧力であり、周囲への受動的規則である。一方では、周囲から独立した自由な振る舞い、能動的な振る舞いこそ、ゆらぎによって表されるものである。ここにあるのは、極端な受動、極端な能動といえるだろう。モノとことは、能動的、受動的なあり方を示すものであるが、極端な受動・能動の対は、反発しあうばかりで、両者を二者択一に陥らせる。
したがって受動、能動の両義性によって、両者の共立した相互作用—-それは局所に見出される社会性だ—-を構想するためには、受動、能動の対立軸をぶれさせ、両者の共立を実現するための、新たな概念装置が必要となるだろう。それが、「能動的受動性」「受動的能動性」である。
能動的受動性とは何か。それは受動的であることに積極的であることを意味する。だれかが何かアクションを起こし、自分はそれに従う。このような受動的状態の実現に向けて能動的積極的アクションを起こす。それが能動的受動性である。
最も端的な能動的受動性は、「いらっしゃいませ」であろう。英語なら、メイーアイ・ヘルプーユー、「何かお手伝いしましょうか」というわけだ。自分から能動的に何かするのではなく、ひたすら、やらせて欲しいと頼み込む。だから、ここにあるのは能動的受動性である。
(郡司ペギオ-幸夫著『群れは意識を持つ-個の自由と集団の秩序』)p151
コンクリートのアルカリ骨材反応
アルカリ骨材反応は、コンクリート中で、素材である岩石(骨材)中のシリカ分が強アルカリによって溶解する現象である。
シリカは、石灰岩を除く岩石中に40%~80%含まれている、ごく一般的な鉱物である。シリカが溶けるということは、岩石が溶解することを意味する。岩石が溶解することはコンクリートが崩壊することである。シリカは石英のような結晶であれば安定であるが、それでもPhが10を超えるような強アルカリ性の水に対しては100ppmくらいは溶解する。これが非晶質になると、アルカリ性の水に対して極めて溶けやすくなり、Ph10の場合の溶解度は1000ppmに達する。
このことはシリカを含んでいるすべての岩石は、コンクリート中のアルカリ濃度がある限界を超えると溶け始めること言うことを意味する。
(小林一輔著『コンクリートが危ない』p74)
我が国のセメント工場では、昭和40年代から50年台半ばにかけて、セメントの製造方法を省エネルギー、大気汚染防止、量産という三拍子揃った効果が期待できる新しい方法に転換した。この方法が、サスペンション・プレヒーターを装備したキルンを用いる方法である。
しかし、この製造方法の特徴である徹底した熱管理が、結果的にキルン内部のアルカリ分を濃縮させることになった。具体的にはキルンやプレヒーター中で生成したアルカリ硝酸塩が、送り込まれてくる原料とともに、ふたたびキルンの焼成帯で揮散し、プレヒーター内で業種するためにアルカリの循環が行われる。循環する気化成分(アルカリと硫黄)の量は、もともと原料に含まれていた量に比べて5~10倍に達したのである。これがクリンカーに導入されて、異常にアルカリ分の多いセメントを供給することになった。
(同書p79)
未来都市の断面図
利子率革命
水野 依然として金余りだと思いますね。その背後には、二一世紀の利子率革命があります。利子率革命とは、具体的には2%以下の超低金利が長期間続く状況を意味しますが、10年以上に渡ってそれが続くと現在の経済・社会システムが崩壊してしまうという点で、まさに利子革命なのです。実際、日本の10年国債利回りば、1997年9月に2%を下回って以降、現在にいたるまでその水準が続き、すでに12年目に突入しています。これは、超低今利の最長記録だったイタリアージェノバの11年(1611~21年)をも上回っています。この17世紀初頭のイタリアで起きた利子率革命は、「長い16世紀(1450~1650年)」を通じて中世荘園制・封建制社会から近代資本主義・主権国家へとシステムを一変させました。日本が先陣を切り先進国に広がっている現在の利子率革命は、一七世紀初頭の利子率革命がもたらした資本、国家、国民の三者の利害の一致を前提とした資本主義に地殻変動が起きていることを物語っていると思います。
利子率革命のもとではどんなことが生じるかというと、投資家が満足するようなリターンを得られる投資機会がもはや存在しないということです。利子率革命の利子率とは、いわゆる実物投資のリターンをあらわしています。つまり資本投下して工場やオフィスビルをつくったりして得られるリターンが年率換算で、2%以下になるということです。現在の日本の10年国債利回りは1.4%ですから、10年間の投資期間において、ずっと1.4%のリターンしか得られない。貸倒損失が年間で1~2%発生すれば(通常の景気循環で生ずる確率、10年間のリターンはゼロないしマイナスになってしまいます。10年リスクをとって実物投資をしてもリターンがゼロなんてことは、資本家失格ですね。もちろん、利潤率が著しく低い状態が長期化することは、企業が経済活動をしていくためいくの必要最低限の資本蓄積もできないということになります。しかし、いいかえれば、それは投資機会か消滅するところまで、投資が行き渡ったということでもあります。
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腐食するコンクリート国家
さてこのような措置を講じたとしても、山陽新幹線のコンクリート構造物の余寿命はせいぜい、十五年~二〇年であろう、山陽新幹線よりも一〇年早く完成した東海道新幹線の余寿命は二〇年ていどと考えられるが、その代替線(第二東海道新幹線またはリニア中央新幹線)の建設計画は二〇年以上も前から練られている。しかし、山陽新幹線の代替線の計画が話題にのぼったことはない。
すでに工事が進められている整備新幹線の一つである九州新幹線鹿児島ルートは、西鹿児島―新大阪間を約四時間に縮めることにより、阪神地域までの日帰り往復という時間短縮効果をねらっている。しかし、完成予定の二〇年後には、山陽新幹線の寿命は尽きている。九州新幹線は、長期問にわたって高速鉄道ネットワークから切り離された状態におかれる。この事態は、収支採算性にも影響することになろう。整備新幹線の建設を進める前に、山陽新幹線問題を解決しておく必要があるのではないだろうか。
(小林一輔著『コンクリートが危ない』p70)
この本が出版されたのが1999年。
それからすでに14年が過ぎた。
山陽新幹線は、ここで小林一輔氏が指摘した寿命にまさに達しようとしている。
東海道新幹線とその将来的な代替路線としてのリニアの関係をみるより、
むしろ代替路線すらないまま崩壊に向かっている山陽新幹線に注目していく必要がある。
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コンクリートの耐久性
鉄筋コンクリートの寿命を掌る耐久性について示方書(土木学会の『コンクリート標準示方書』)はこんな記述をしている。
「構造物の耐久性とは本来、安全性、使用性、復旧性等の要求性能が設計耐用期間中のすべての期間に渡り確保されることを目的として設定されるものであるので、これらの性能と独立ではなく、これらの性能の経時変化に対する抵抗性となる。しかし、性能の経時変化を考慮して安全性、使用性、復旧性等の性能を時間の関数として評価するのは、現段階で難しく、また必ずしも経済的ではない。」
簡単に言ってしまえば、鉄筋コンクリートの寿命をきちんと設定したいが、現段階ではそれは難しく、非経済的だと言っているのである。
(溝渕利明著『コンクリート崩壊』p146)