シーザーの『ガリア戦記』を読むと、当時の兵隊や、庶民の生活ぶりを知ることも出来ます。
この頃の家族単位は、ちょうど日本の封建時代と同じで、家長が中心となって構成されていました。そして家の真ん中に台所を作って食事をします。どういうものを食べるかと言うと、アピキュウスのような金持ちのための料理とは違います。鍋があって、水を入れてて早く湯を沸かそうと思ったら、中に焼けた石を入れる。その中に、肉類魚介、取れたものならほとんどどんな種類でも、要するに肉類と、引っこ抜いてきた野菜全部を放り込んで、ただ煮て食べたんです。香辛料を使うと言うことはなく、一般の人たちは塩とガルムしか使わなかったようです。
フランスの中世料理に鍋に何もかも入れて、ごたごた煮て食べるガリマフレがありますが、それと似たもので、一般の人たちはほとんどこればかりを食べていました。
現在のフランス人でもよく似たもので、ポ・ト・フーだってそうでしょう。そして、そのごった煮を入れる器もなかったんです。いまでもスイスの田舎に行くと、その表面に溝のようなものを掘った木の厚いテーブルがあります。そのようなテーブルの中に、煮たものを入れて、直接そこから食べ、食べ終わったら水をぶっ掛けて洗う。こんなものを考案した人たちは、明らかに権力を握られない人たちでしょう。
権力者や金持ちは、スープ皿はなかったけれど、大きなスプーン(レードル)をまわしながらの飲んでいました。辻静雄著『フランス料理の学び方』p64
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ローマ時代の生活
古代文明誕生の契機としての気候変動
1980年以来、私はギリシア、トルコ、シリア各地の花粉分析の調査研究に従事してきた。ギリシアやトルコ、シリア各地の湿原にボーリングを行い、堆積物を採取し、その中に含まれている花粉の化石を分析する根気の要る作業を続けてきた。その結果、一つの重大な発見があった。それは古代文明が誕生した5700年-4500年前は、地球上の中では特筆すべき気候変動期に相当していたと言うことである。
暦年代7000-5700年前の地球の気候はクライマティック・オプティマム(気候最適期)とよばれる高温期だった。地球の年平均気温は現在より2~3度高かった。このため極地の氷河も溶け、海面も上昇して、当時の日本列島では縄文海進によって、関東平野や濃尾平野などの沖積平野の大半は海底に没していた。
ところがこの高温期は5700年前に終わり、気候は急速に寒冷化する。この気候の寒冷化によって、北緯35度以南の北半球の温帯~亜熱帯の地方は、乾燥化が進行した。この気候の乾燥化によって、大河のほとりに人々が水を求めて集中した。もともと大河のほとりにには農耕民が生活していた。気候の乾燥化によって大河のほとりに水を求めて集まってきた人々は、牧畜を生業の主体とする人々であった。なぜなら牧畜民は農耕民よりも乾燥したところで生活していたために、この気候の乾燥化の影響を最も強く受けたからである。
この気候の乾燥化を契機として大河のほとりに人口が集中し、牧畜民と農耕民の文化の融合がきっかけとなって古代文明が誕生したのではないかと言う仮説を私は提示したのである。事実、ナイルのほとりでは、乾燥化によってナイルの川の水位が低下する時代にピラミッドの建造が始まっている。ピラミッドの建造は、気候の乾燥化によって大河のほとりに集中してきた余剰労働力を消化するために始まったのではないかというのが、私の仮説でもある。大河のほとりへの人口の集中は余剰労働力の提供のみではなく、情報量を増大させ、牧畜民と農耕民の文化の融合は新たな技術革新や社会や生活様式の多様化をもたらす。これが古代文明誕生の第一歩であったと私はみなしたのである。したがって、5700~4500年前の気候変動期において、類似した気候の寒冷化と乾燥化が進行した北緯35度以南の大河の中・下流域では、多元的にどこでも文明誕生の契機があったはずであるというのが私の古代文明誕生多元説なのである。
フランス料理とその外延
これまで主に食材やその調理の仕方、そのサーヴィスのあり方を中心にフランス料理を見てきたが、これだけではフランス料理は完成しない。料理人たちの人間関係や、料理人と彼らの雇い主との関係、さらには、より大事な要素として、誰に食べてもらうかという問題もある。王侯貴族が臣下や友人、国内外のお客に食べてもらうこともあるし、一般人が家庭に客を招待して、自ら又は雇った料理人に作らせてもてなす場合もある。あるいは、レストランで金を支払って料理とサーヴィスを提供してもらうこともある。
これらの人間関係の外側には、料理人に食材を供給する流通網、食器つくりとその供給者、インテリア関係者など、幾重もの社会関係が広がっている。フランス料理を徹底的に理解するにはそこまで読み込まなければならないが、それは容易なことではない。といっても、フランス料理は目配りを出来るだけ広げようとしている料理であり、この目配り=心配りということは、千利休以来のお茶席や会席料理の伝統を持つ日本人には理解しやすいはずである。湯浅赳男著『フランス料理を料理する』p153
オーブンと蒸籠
食物の加熱方法は多様だが、料理として洗練されていく過程で一つの加熱方法が特に重要な役割を果たしてゆくようになることから、料理史のタイプを分類するときそれが最も重要な要素であると私は考えている。
すなわち、ユーラシア大陸の西側ではオーブン=パン焼き用窯であり、東アジアでは、コシキ=蒸篭となる違いである。
人類が食物の加熱することを知ったときの方法はまず直火焼き(グリル)、次に熱灰や熱した土に埋めて焼く、容器が生まれると焼き石を入れて水を沸騰させてモノを煮るといったものだったろう。
東アジアでも西アジアでも、穀物はまず水で煮られることになる。東では、アワ、キビ(後には米)など雑穀が煮られ、西でも麦が水にされ、要するにカユとして食べられたのである。共通しているのはここまでで、これから東西は違った料理法を発達させることになる。なぜなら、初期の焼き物は土臭くて食物の味を損なったから、別の方法が求められたのであって、それが西ではパン焼き窯、東ではコシキ=蒸籠だったのである。なお、麦をいって粉にして食べる方法もある。
なぜこのようになったのか。まず東側の雑穀は夏物の作物で、脱穀して、さらに麦芽をそのままとりだすことができ、それをカユにしてもよいが、土気を嫌うので、土器で水を沸騰させ、その蒸気で穀物を蒸して食べることになった。その道具がコシキである。
西側の麦は冬作の作物で、脱穀して、麦芽を取り出そうとすると砕けて粉々になってしまうのでこれを粉にして水で練って、窯を作って間接熱で焼くという方法がとられた。パンの誕生である。湯浅赳男著『フランス料理を料理する』p59
「海の牧畜民」による支配としての植民地
安田 僕はインド・ヨーロッパ語族の爆発的な拡大を考えたときに、「海の牧畜民」という言葉を使おうと思っています。つまり、かつて漁撈民は巨大な海を支配して交易をしていても、必ずしも植民地的な支配はやらなかった。ところが、ヨーロッパから出かけていったインド・ヨーロッパ語族の人々はアメリカやオーストラリア大陸を植民地にし、さらにアジアにもかなりの植民地を持ちました。そうした思想の原点がどこにあるかというと、結局インドヨーロッパ語族が牧畜民の文化をずっと持っていたところに行き着くわけです。牧畜民は、移動することによって新しい植民地をつくっていく。
ギリシャもインド・ヨーロッパ語族が拡大し、文明を作った国家ですが、彼らはやはり巨大な仕組みを地中海世界に作り始める。なぜギリシャ文明があのように大量の植民都市をつくったというと、もともと牧畜民であったインド・ヨーロッパ語族の一派であるドーリア人がやってきて、彼らが森の中で船を作る技術をマスターし、海へ出たからだと思います。
陸上の牧畜民の子孫が、海の先に作ったのが植民地だった。漁撈民は昔から海に接して海洋を自由に動き回っていても、決して巨大な植民地を作らなかったわけです。石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p192
持続可能な食料としての米と魚
安田 牛肉1トンをつくるのに小麦が12トン必要という話が出ましたが、1トンの小麦を作るのに、だいたい1000トンの水がいる。つまり1トンの肉に1万2000トンの水がいるわけですね。地球の水資源を考えると、中国の13億人の人間が今の日本人並の肉を食える水資源はないのです。
石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p213
石 21世紀は、世界のどこが一番発展するかというと、僕は亜熱帯モンスーン地域だと思っています。その理由は、水という制約条件が非常に低いからです。同地域は年間の降水量が基本的に多いので、コントロールさえすれば水に困らないわけですよ。
安田 でも、乾季があるでしょう。
石 だから水を溜めておくシステムが必要なんです。
それともう一つは、安田さんが言うように米と魚ですよね。米は最も持続的な農業であり、魚は最も持続的なタンパクの供給源です。「持続性」の文化の中に内在させてきたのは、やはり亜熱帯モンスーン地域しかない。石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p220
人類のカタストロフィー
石 今のままいけば、かなり近い将来にカタストロフィーがあると思います。最近の例で言えば、1960年前後に自然災害の政策の失態が重なって中国で2600万人が餓死したといわれています。わずか40年前の話ですよ。その後中国人は一時的に悔い改めたと思いますがまた元も戻ってしまった。
環境史の教訓というのは、人間が自分から進んで環境を良くしたことはなかったということです。湯浅 破局がなければですね。
石 たとえばペストが大流行したヨーロッパでは、人口が激減したために森林がが急速に回復しました。人類は大きな破局に直面して初めて悔い改めることになった。しかし、やがて忘れてしまう。現代のようにこれだけ楽しい情報が溢れて欲望を毎日毎日くすぐられていては、「悔い改めなさい」といっても、それは無理でしょ。
安田 今われわれが問題にしているのは実際の環境革命ではなく、環境革命に至る前、出来るだけ今の状態を引き伸ばすのにはどうしたらいいかという延命策で言っているわけです。カタストロフィーが解決策なら、早くカタストロフィーを起こしたら言い訳ですが、それでは困るわけです。
湯浅 その場合は人類は全滅しますね。
安田 いや、人類が全滅することはないですよ。
湯浅 大惨事が起こらないために、破局をくぐりぬけるだけの準備がいる。
石 やはり、過去500年のヨーロッパ社会が世界に幻想を振りまいた「進歩」という概念が問題になります。現在60億人を超えた世界の民が、今日より明日、明日より明後日をよくするためにがんばっている。おそらく200年前の世界では、そんなことを思っていた人は少なかったはずです。ところが、今は発展が無条件に義務付けられている。
湯浅 今やらねばならないことは人類史の総括だと思います。とりわけ産業革命以後の総括と、ここ500年の近代の総括だと思います。
安田 僕が今、思っているのは、スローダウンして軟着陸するしかないということです。
石 大賛成ですね。先程も安田さんが言われたとおり、500万年の人類の様々な積み重ねを総括しないと将来は見えてこない。そこに環境史の意味があるのでは。将来は破局しかないのかもしれないし、すこしでも破局を先延ばしに出来るのかもしれない。少なくとも過去に学ばないものには将来はないわけです。
石弘之+安田喜憲+湯浅赳男著 『環境と文明の世界史』p261
実験と理論
実験によって、もののある具体的な性質、あるいは現象間のつらなりが知られたとしても、それだけでは学問とはいえない。いわゆる学問の定義の中に入るには、そういう知識にある体系が組み立てられなければならない。体系が出来て始めてそれが役に立つことになる。
ところで、いろいろ雑多な個々の知識に体系をつけるという場合に、二つのやり方がある。その一つは、こいう知識を整理することである。たとえば、分類するということも、一つの体系を作ることである。事実そういうことも、決して馬鹿にはならないのであって、古典的な動物学や植物学の中で、いわゆる分類学といわれている部門なども、案外役に立っているのである。このごろは、そういう学問があまり流行らないので、何か初歩の学問のように思われている傾向もあるが、実際にはああいう知識が多いに役に立っているのである。
しかしそればかりでは、もちろん今日われわれの言う学問の体系にはならない。今日学問の体系といわれているものは、いろいろな個々の知識を整理するだけではなく、総合したものである。自然現象というものは、複雑ではあるが、連続した融合体である。それをいろいろな方面から見て、いろいろな知識を得る。そういうたくさんの知識を一つの総合した知識に組み立てることが体系を作ることである。ところでそういう体系を作ることによって、何を得るところがあるかというと、それは多いにあるのである。多くの知識をただ寄せ集めたばかりでは、あまり役に立たない。しかし本当にこれを有機的に総合すると、学問の次の展開を促すという非常に大切な役目をすることになる。中谷宇吉郎著『科学の方法』p159
邪馬台国時代の鍛冶技術
纏向遺跡ではもともと、鉄で道具をつくる鍛冶生産の痕跡が三世紀後半ごろと、近畿の中でも比較的早い段階から行われていたことを示す鉄斎や送風管・砥石などの遺物が見つかっていました。
平成21年に兵庫県淡路島の五斗長垣内遺跡で、弥生後期にさかのぼる鍛冶関連遺構が大量に見つかりましたので、古さでは纏向はそれほどではなくなってしまったのですが、これまでに纏向遺跡で見つかっている鍛冶関係資料の中に、非常に興味深いものがあることが分かりました。
それは何かといいますと、参照でも触れられたように鉄の塊を鎌や鍬などの製品にする、鍛冶をするときには、鉄を加工しやすくするために炉にふいごで空気を送り込み炉内を高温にします。その送風管の先端部分の断面形状は近畿のものはちくわのような、なかに穴が開いている円形をしています。一方、纏向遺跡から見つかっているものの中には断面形状がかまぼこ型をした、北部九州に見られるタイプのものが含まれており、この送風管の形の分析から、鉄の加工技術には北部九州系の鍛冶技術が導入されたのではないかと言われるようになってきています。石野博信、高島忠平、西谷正、吉村武彦編『研究最前線邪馬台国』p191
二世紀終わりから三世紀に長大な刀は、ツクシでは伊都国である福岡県前原市上町遺跡から出土しています。また同時期の日本海沿岸の福井県永平寺町乃木山古墳、鳥取県湯梨浜町宮内遺跡からも一メートル前後の刀が出土しています。
奈良県からはまだ出土しておらず、近畿地方で唯一、大阪市東淀川区崇禅寺遺跡から、長いと推定される刀の握りの部分だけが出ています。崇禅寺遺跡は大阪湾の入り口部分、かつて大阪平野には河内潟という大きな潟湖があったのですが、その湖の入り靴のところに位置します。
またさきほど高島さんのお話にありましたように、鉄は九州から圧倒的に多く出土していて、近畿には非常に少ない。京都府北部の丹後地方で、弥生後期から三世紀にかけての京丹後市御坂神社墳墓群などから、かなり沢山の鉄が出てきます。ヤマト説の研究者は丹後を近畿に含めて、それほど鉄器が少ないわけではない、といいますが、奈良・大阪の墓、土器など文化の特色を丹後と被告すると、まったく違います。ですから私は単語を近畿に含めるべきではないと思います。そうしますと、奈良大阪の鉄は非常に少ないのです。
しかし、数年前に行われた三世紀中央のホケノ山古墳の調査で、鉄鏃、銅鏃等の金属製品がそれぞれ74本、70本、あるいは鉄刀剣類が20余本出ており、80メートルクラスの長突円墳にもかなりのの金属器が副葬されていることが分かりました。
ヤマトの鉄は集落遺跡での出土は非常に少ないけれど、墓にはかなり入っている可能性がある。石野博信、高島忠平、西谷正、吉村武彦編『研究最前線邪馬台国』p70
電力自由化と原子力発電
1990年代には構造改革を求めるアメリカの圧力や、バブル崩壊後の経済財政再建を目指す歴代政権の意志などを背景として、自由主義改革の波が押し寄せた。この自由主義改革の気運は、電気事業を所轄する通産省から見てコントロールできない外圧であり、それを拒否すると言う選択肢はなかった。そのため通産省は、今までの濃密な業界指導・支援政策を流動化させる兆しを見せ、電力自由化政策を推進していく方針を掲げた。
しかしそれは電力消費の頭打ちに直面していた電力業界に多大な不安を与えた。最大の懸念の一つのなったのが、原子力発電の高い経営リスクであり、その低減のために原子力発電事業のリストラを進めようとする動きが始まった。具体的なリストラの対象となりうる事業は、以下のようなものであった。(1)商業発電用原子炉の新増設の中止または凍結:既設の原子炉の燃料費は、火力発電よりもはるかに安価なので、巨額の初期投資をして建設した以上は、出来るだけ長期間運転を続けたほうが有利であるが、新増設の経営リスクはきわめて高い。既設原子炉のリプレース時に、原子力発電から火力発電への転換を行うことが合理的である。また計画中・建設準備中の原子炉の建設中止・凍結を進めることも合理的である。とくに長期間にわたり地元の反対により膠着状態にある計画については白紙撤回が妥当である。
(2)核燃料再処理工場の建設中止または凍結:核燃料サイクルのバックエンド(使用済み核燃料の貯蔵保管や廃棄物処理等)を整備することは、いかなる路線を選ぶにせよ、避けて通れない課題であるが、再処理路線を放棄すれば、電力業界は再処理工場の莫大な建設費・運転費を支払わずにすみ、バックエンドを大きく減額することが出来る。さらに再処理事業の不振に伴う巨額の追加コストの発生リスクを逃れることが出来る。
(3)国策協力ですすめてきた諸事業の中止または凍結:新型転換炉、ウラン濃縮、高速増殖炉などの開発プロジェクトはもともと、科学技術庁系統の開発プロジェクトへの国策協力として進めてきたものであり、電力業界にとっては交際費に相当する。財務上の余裕がなくなれば切り詰めるべき性質のコストである(これらのうち新型転換炉開発は実際に、電力業界の撤退表明により、1995年に中止された)。
吉岡斉著『新版 原子力の社会史』p39
階級都市
東京二十三区の間には大きな格差がある。所得、階級構成、学歴、生活保護率など、階級や社会階層に関するあらゆる指標で、豊かな都心四区、相対的に豊かで高学歴の山の手、すべてにおいて豊かさから取り残された下町という、はっきりした序列が見出される。ここから住民の平均寿命や、子供の成績と進学率などにも、深刻な格差が生み出されている。
橋本健二著『階級都市』p249
格差が大きいことは、それ自体で、さまざまな問題を産み出す。これまでも論じてきたように、子供たちを中心に機会の平等が失われ、格差が固定化し、貧困連鎖が生じてしまうことが最大の問題だが、それだけではない。
大きな格差は、それ以外にも様々な社会的損失を産み出す。その最大のものは、人々の健康を損ない、生命を危機にさらすことである。この問題については、近年、英国米国中心に膨大な量の実証研究が積み上げられてきた。
研究をリードしてきた代表的な研究者の一人が、リチャード・ウィルキンソンである。彼によると、これまでの研究から次のような事実が明らかになっている(ウェイルキンソン『各社社会の衝撃』)。経済格差の大きな死亡率の関係を都市別に見ると、不平等な都市ほど死亡率が高くなる。こうした傾向の一部は、格差の大きな都市ほど、健康を害しやすい貧困層が多いことによって説明できるが、原因はそれだけではない。データは、不平等な社会に住めば、どんな所得レベルの人でも死亡率が上がってしまうことを示している。格差が大きくなると、低所得の人々のみならず、平均的なさらには平均以上の所得のある豊かな人々でも死亡率が上昇するのである。
なぜ、こうなるのか。大きな較差があるとき、人々は強い心的ストレスを感じ、健康を害しやすくなる。さらに人々の間に信頼関係が形成されにくくなり、信頼に基づく人間関係も失われていく。すると、人々はお互いに敵意を抱きやすくなり、犯罪が増加し、ストレスはさらに高まる。米国で行われた調査研究によると、所得格差の大きい州ほど殺人発生率が高い傾向があり、所得格差と貧困率の二つの要因で、州による殺人発生率の違いの半分以上が説明できると言う(ウィルキンソン前掲書、カワチ/ケネディ『不平等が健康を損なう』)。橋本健二著『階級都市』p261
河川と市場
西ヨーロッパのアルプス以北では、河川が重要な交通ネットワークをなしている。鉄道の出現以前はとりわけそうであった。河川は四季を通じてほぼ同じ水量をたたえ、運河と同じ役割を果たしていた。それゆえ西ヨーロッパに発生した市場経済は主としてこのような河川交易を媒介に発達した。まさしくステュアートの述べるとおりである。
アダム・スミスもこの事実を注意視していた。しかし、ここで見逃されてはならないのは、スミスにおいて明白に、河川交易を媒介とする市場経済の発達が、農村の内部からではなく、その外部から内部へと言う方向で捉えられている事である。すなわち、まず河川の沿岸に沿って技術と産業が作りだされ、それがのちに内陸地方へと広がってゆく、というのである。
「水上輸送によって、陸上輸送だけに提供されるよりもっと広汎な市場が、あらゆる種類の産業に開放されるから、海岸で、また航行可能な河川に沿って、あらゆる種類の産業が自然に分化しはじめる。そしてそのような発達がその国の内陸地方へと広がって行くのは、ずっと後になってからのことである場合が多い。」玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』p115
シリーズ 原発事故への道程/前編 置き去りにされた慎重論
非可逆的時間の世界を捨象する<狭義の経済学>
こうして市場経済の自律的社会では、生産は消費を前提し、消費はまた生産を前提する。経済事象はすべて繰り返すものとなっている。もっぱら商品形態を通して可逆性の世界である。市場経済に登場する人間は、つねに可逆的時間の中でビジネスを処理する仕組みとなっている。近代経済学を代表する新古典派理論においても、市場を中心に経済取引が、週単位で毎週繰り返すものと想定されているのは、当然のことである。資本の回転循環の世界に他ならない。<狭義の経済学>は、商品経済又は市場経済の対象とすることによって、実は非可逆的時間の世界を捨象している。だがこのことによって理論体系の完結性が保証されるものになっているといってもよいのである。
沖積層向け住宅形式としての高床式
このような竪穴式住居が寒地向きで、平地式が暖地向きだということは兎も角、両者とも横穴から一歩進んだ傾斜地用の中間形態を過ぎて、自らの手で土を掘りあるいは地面に藁・粘土・石を敷き、柱と小屋組みを組み立てて屋根を葺くという完全な生産に移ったということは共通である。そして竪穴式も平地式も土の表面を床面としていることは、その地盤が高燥であること即ち一般に洪積層上に位置することが条件であって、湿潤な沖積層低地の土質では耐えられぬ所である。このことは考古学が明確に立証している。即ち現在発掘される弥生式住居跡には竪穴式が多いが、その数は縄文式住居跡と比べるとはるかに少なく、平地式住居は未だ発見されていないのである。そしてこの期の末期に現れる銅鐸の絵画や土器は明らかに高床住居の存在を示しているのである。これらは明らかに弥生式文化時代に至って、農耕しかも水稲による水田耕作が一般するにつ入れて、住居が洪積層上から沖積層平地へ進出したために在来竪穴式や平地式が不適当になり、地表面より一段高いところに床面=起居面を定める高床式が必然的に要求されたことを示すものである。竪穴式と平地式は土に埋もれたことと、敷石や土器のような普及性の材料を使用したために発掘されるが、高床式はその原材料が木材であるため腐朽しいてその跡を止め得ないこととまさに一致するのである。
「正しい姿勢」について
「正しい姿勢」の文化的特性であるが、結論から言えば、これは食の獲得にかかわる生産労働の運動形態と密接なかかわりがある、と筆者は考えている。人類の歴史を振り返ると、支配階級や都市に住むブルジョアを除くほとんどの人々は、食の獲得に関する生産労働に従事してきた。競技スポーツほどダイナミックではないにせよ、狩猟、牧畜、農耕、稲作といった日々の労働は、それぞれ固有の運動形態にしたがって、労働者の体型をそれぞれに形作る。泥濘に足を踏ん張り、一つ一つの手で稲を植え続ける水田稲作と、馬にまたがり、あるいは徒歩で、何十頭もの牛や羊を追い掛け回す牧畜労働とでは、その運動形態にしたがって、まったく異なる身体が形作られるだろう。
家畜の肉や乳製品を主食としてきた民族と、野菜や穀類を主食とする民族とでは、消化器官や循環機能、皮膚の質感から体臭までもがまったく違った特徴になるだろう、食事の作法や椅子座、床座といった生活上の基本姿勢についても、おそらく食べることと、生きることとの必然から生まれた秩序が、一連の形式となって、社会を支えてきたに違いない。
このように身体は自然環境と社会環境との歴史的蓄積によって形作られていて、それぞれの文化にはそれぞれの身体の理想像がある。陸上選手にとっての「正しい姿勢」と相撲取りにとっての「正しい姿勢」とが同じではないように、あるいはクラシックバレエと日本舞踊の基本姿勢とが異なるように、それぞれの文化圏にはそれぞれの自然にかなった体の理想像が存在する。
沖積層と階級
関東地震の震害分布と復興調査の結果は、すでに述べたように、泥質または泥炭質の沖積層の厚いところほど震害の大きいことを明示したのであるが、その後の東京の発展の歴史はこのような地盤の良否が知れてしまった故かどうか、地盤が悪く、したがって地価の安いところほど家屋が密集し、あるいは工場の敷地となった。現代の東京では、”過密地ほど地盤が悪い”と言い直すべきであろう。こうして、洪水、高潮、地盤沈下、震害あるいはそれに起因する火災など地盤に関係ある災害を受ける素地は十分に整ってきたということが出来る。
これらの災害を受けやすい土地は、ほとんどが沖積地であり、その中でも低い土地である。そして、このような低地の多くが軟弱地盤の土地であるから洪水や高潮の起こりやすいところは震害も起こりやすいのである。