山で切り倒され玉切りにされた木材は、シュラや木馬によって谷川まで出され、一本ずつ流す。水量の少ないところでは材木で堰を作り水をため、その水を落とす勢いで流す。これを小谷狩りという。本流に入ると水量も多くなるから堰は作らずに流す川狩になる。小谷狩・川狩は主に秋の仕事であった。木曽川本流では錦織に綱場があり、川狩によってここまで流された材木は、ここで筏に組まれ、熱田にある白鳥の著木場まで送られ、ここから船で江戸や大阪に運ばれた。
宮本常一『川の道』p156
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筏と丸太
大和時代の交通
四-五世紀の段階では、国内的には、交通はまだ部族勢力の圏内に限られるが、しかし、部族間には、戦斗や政治交渉・連絡などによって、時には部隊の、また時には使者の往来がかなり活発に見られたと思われる。
田名網宏著『古代の交通』
大和朝廷の確立した六世紀ともなれば、東北地方を除いてほぼ全土がその支配下に組み込まれ、その過程の中で、時には、「崇神紀」「景行紀」にみえるような、豊城命の東国統治、彦狭島王の東山道15国の都督、御諸別王の東国支配といった、中央皇族の派遣による地方統治の形式によることもあったであろう。それに伴って、中央と地方との交通路も次第に開拓されていったものと思われる。
田名網宏著『古代の交通』
筏、筏師
トラックなどの運搬方法がない時代、河川上流からの材木の運搬には、筏が用いられた。
材木の運搬
丸太を数本、平行に並べてつないだものが最も典型的な、いかだのイメージである。木材そのものの浮力に頼った構造であるため、積載運搬能力や耐波性は低いが、いかだは元来、簡易な形式の舟として用いられるのみならず、そもそもいかだの部材としての木材を河川において運搬するための手段としても用いられたものである[3]。ある程度の流量のある川沿いであれば林道などが未整備な箇所においても木材の運搬ができたため、日本でも地域によっては昭和30年代まで用いられた。
しかし、流域で貯木していた木材が洪水時等に下流へ被害を及ぼしたり、水力発電や治水などを目的とするダムの建設や林道等の整備が進んだりすることにより木材運搬の手段としては使われなくなった。やがて、船舶工学の発展にともない、舟としてのいかだも先進国では実用に供されることはほとんどなくなった。
wikipedhia-筏
筏師(いかだし)とは、山で切り出した材木で筏を組み、河川で筏下しをすることによって運搬に従事することを業としていた者。筏夫(いかだふ)・筏乗(いかだのり)・筏士(いかだし)とも。
古代・中世においては、畿内の河川交通の要地や生産地の近くに置かれた木津(材木湊)には権門による木屋が設けられ、木屋預や木守の下に筏師が編成されていた。権門の中でも特に大量の材木を要した寺社は木屋預や筏師を寄人とすることで安定した材木確保を図り、木屋預らも寄人身分を得ることで筏下し以外を含めた河川交通における特権を得た。時代が下るにつれて良質な材木を求める動きは畿内の外側へと広がり、新しく生産地となった地方の山林に近い大河川にも筏師は広まった。また、増水期や農家の水需要が多い時期には筏師の行動が制約され、江戸時代の寛永年間以後には夏季に筏師が休業する慣例が確立されたため、その時期などには焼畑などの農業に従事したり、川舟の操作や舟荷扱いなどを手掛けた。また、副業として筏下しとともに酒樽や板・駄物などを上荷として筏に乗せて輸送賃などを稼いだ。筏師は仲間同士で結んで「筏師座」と呼ばれる座を結成したり、腰瀧祭のような祭祀をともに行った。安土桃山・江戸時代に入り、権門の保護が失われる一方で社会の安定に伴って材木の需要が増大すると、筏株(いかだかぶ)と呼ばれる営業権が確立され、「筏乗前」と呼ばれる株仲間へと発展した。近代になっても材木需要の高さから筏師の活動は活発で、株仲間の廃止とともに「筏師組合」への衣替えも行われた。だが、昭和に入るとトラック輸送の発達やダム建設による河道の堰き止めなどがあって業務が困難となり、戦後には筏師の活動がみられなくなった。
wikipedhia-筏師
木曽川での水運
この川の水運は、古代より豊富な木曽山木材の重要な搬出路としての筏水路として、開発されてきた。しかし、川船による水運の本格的な開始は近世に入ってからであり、この川が山地を出て濃尾平野に入る地点の細目村黒瀬(現岐阜県八百津町)を遡行終点として、それより下流で展開した。
徳川黎明会
徳川美術館、徳川林政史研究所という2つの施設を運営している。
富の上澄みとしての美術品を展示する美術館と、富を産み出す源泉である林政に関する研究所。
木材が、建築・土木などの構築物をはじめ家具や食器などの雑貨、さらには燃料としても利用されたとすれば、電気や石油が普及していない江戸時代には、現在とは比べ物にならない重要な位置を占めていた。
木の産地は、いわば現代の油田か原子力発電所のようなものだったといってもいいだろう。
徳川林政史研究所での研究成果から多くのことが学べそうである。
笠松湊
木曽川が東から西への流れを南に変え、それまで並行してきた木曽川と中山道とが分岐する場所に笠松湊はある。
水運によって物資が輸送されていた時代、木曽川を輸送されてきた品々をこれより西に輸送するためには、この川湊を経由して陸路の中山道が使われたはずである。
天領として直轄支配していたことからも、江戸幕府がこの地を重要視してことを伺い知ることができる。
また、笠松湊のほぼ真北に岐阜城がある。
岐阜城下町も、「木曽川と京都につながる道(中山道)とが分岐する場所」として発展した町ではないだろうか。
寛文2年(1662年)美濃国奉行(美濃郡代)名取半左衛門長知が郡代陣屋を移し、傘町から笠松に改称してから約200年にわたり、笠松陣屋を中心に、徳川幕府直轄地支配や治水行政の中心地、地方物資の集散地となった。 木曽川水運の拠点としても発展し、下流の桑名、四日市、名古屋からは海産物や塩、衣類などが運ばれ、上流からは年貢米や材木、薪炭などが運ばれた。 かつては問屋や倉庫、船宿、料亭などが立ち並び木曽川随一の繁栄を誇っていた。
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中山道と木曽川/利根川・荒川
江戸時代には、鉄道も自動車もなく、もっとも効率的な物資の輸送手段は船だった。
とすれば、大きな川は、物資の輸送にとって重要な経路となったはずである。
実際に、こうやって木曽川と利根川、荒川と中山道の位置をプロットしてみると、大方それらは平行しており、中山道が川に沿って引かれていると理解できる。
単に京都から江戸への人の移動のためだけなら、木曽谷ではなく伊那谷を通ったほうが歩きやすく、諏訪から山を登って軽井沢をわざわざ経由するのではなく、甲州街道を使って甲府を通って江戸に至ることが出来る。
中山道があえて歩きにくい木曽谷や、軽井沢を通っているのは、木曽川や利根川や荒川に沿って人が行き来し、宿泊する町を整備する必要があったためなのではないだろうか。
中山道は、単に人が移動するためではなく、社会情勢が安定した江戸時代に、地方から中央へ資源を安定して供給するためのパイプラインとして木曽川や利根川・荒川などの水路が機能し、それを陸路からサポートする役割があったと推察できるのである。
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木曽谷と林業
木曽谷
大部分を急峻な山地が占めるため耕作地は少なく、木曽川沿いの狭小な平地に見られる程度である。年間降水量3000mmという豊富な雨量と、濃飛流紋岩類の風化による保水力の高い土壌によって、針葉樹が生育しやすい条件がそろっており、近世初期以降、ヒノキを中心とする林業がおこり、当地の主要産業として栄えた。近世初頭には、江戸幕府の政策に従って畿内や北陸などの林業先進地から多くの杣工が動員され、林業開発が急速に展開した。また木曽川の開削事業が進められ、大量の材木の運送が可能となった。木曾谷は尾張藩領とされ、尾張藩は林業により多大な収入を得た。近世前期は林材の伐採が著しく森林資源の枯渇が危惧されるようになったため、尾張藩は森林保護・伐採抑制政策を進め、その結果、広大なヒノキ林が形成されることとなった。
Wikipedia木曽谷
石 (単位)
戦国大名の財力や兵力をも意味していた石高が、人を養っていけるエネルギー量(米の量)から換算された単位だというのは、興味深い。
前近代では、一人の人間が生きていくために必要なエネルギー量にそれほど大きな差はなかった。
そのため、保持しているエネルギー量が、そのまま経済力、兵力として換算できたのだろう。
1石は下位単位では10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当する。米1合がおおむね大人の1食分とされているので、1石は社会構成員1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見なされ、示準として換算されてきた(365日×3合/日=1095合。ただし、東アジアで広く使われていた太陰太陽暦では1年の日数は年によって異なる)。
なお、現在、生産力が増加した結果、一反での米の収穫量は、3.5石(522kg=約3500合)である。
「1反」は、約10アール=1000㎡。
自給自足の本 完全版 [単行本]
川合健二マニュアル
川合健二ほか著『川合健二マニュアル』(編集出版組織体アセテート)
自律型エネルギーによる生活を目指した技師・川合健二の活動・思想をまとめたマニュアル本。
次世代の生活スタイルを考えるための出発点。
家庭での消費電力量推移(電気事業連合会HPより)
電気事業連合会HP「電気の広場」にある、家庭での消費電力量の推移のグラフをまとめてみた。
1970年と比較して、年当たりで3倍、特に真夏に限れば最大5倍も、増加していることがわかる。
ただ、おおよそ1995年から微増になり、2009年には1995年のレベルより減少している。
つまりこのグラフから、新しい電化製品の登場によって大幅に変化してきた生活様式が、1995年ごろ完成されたと読むことができる。
「なぜ警告を続けるのか-京大原子炉実験室・”異端”の研究者たち」
「なぜ警告を続けるのか-京大原子炉実験室・”異端”の研究者たち」
業界では異端である原子力発電の批判を行う原子力工学の物理学者、京大原子炉実験室の小出裕章氏、今中哲二氏の活動を紹介する番組(製作・著作/毎日放送)。
京都大学原子炉実験室
京都大学原子炉実験所 原子力安全研究グループ(小出裕章氏のHP)
特に、この番組の終盤で小出裕章氏が語った以下の言葉を、真剣に受け止めるべきだと思う。
人間が生きるためには、一人一日当たり4万~5万キロカロリー程度のエネルギーがあれば、十分に生き延びることができる。すでに日本では、一人一日当たり12万キロカロリーものエネルギーを使ってしまっているのです。これ以上エネルギー消費を増やしたいというようなことは、言ってはいけないということに、まずは気がつかなければならないと思います。日本人すべてが。
「原子力からシフトを」 自然エネルギー、50年までに100%に
「原子力からシフトを」 自然エネルギー、50年までに100%に
(環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長インタビュー/朝日.com)
候補者のエネルギー政策を知りたい有権者の会
候補者のエネルギー政策を知りたい有権者の会
統一地方選挙の立候補者のエネルギー政策を聞き、投票の参考にするためのアンケート・サイト。
論文「関東地方沿岸域における洋上風力エネルギー賦存量の評価」
「メソスケールモデルと地理情報システムを利用した関東地方沿岸域における洋上風力エネルギー賦存量の評価」 山口 敦、石原 孟
田中優さんが、小林武史さんと対談で話した、問題の論文。
田中 今の電気をまかなうのに、そんなに本数はいらないからね。東京電力が東京大学に委託して、関東地方沿岸50km以内に風車を建てたとしたら、どれだけ発電するかを調べたそうです。そうしたら出てきたデータが「2005年の東京電力の年間電力販売量とほぼ同じ電力を作れます」というものだった。
小林 すごい。
田中 そうしたら東京電力は「そのデータは公表しないでください」と言ったらしい。だけど、インターネットに公表されていたのを僕は検索して見つけてさ。