Category Archives: Architecture - Page 3

川合健二マニュアル

川合健二ほか著『川合健二マニュアル』(編集出版組織体アセテート)

自律型エネルギーによる生活を目指した技師・川合健二の活動・思想をまとめたマニュアル本。
次世代の生活スタイルを考えるための出発点。

マンフレッド・タフーリ著『建築神話の崩壊』

近代建築の運命は、近代建築自らが戦略上自主的に合理化の理念を担ったときに決定された。そこでは広範囲な政治や労働者階級の問題は、考慮の外にあった。合理化という命題が、歴史的必然を持つものであることはうなずけるが、近代建築がそれを目指したとき、もう先は見えていた。合理化という題目を必死に守る建築家たちを待ち受けていたのは、空しさ以外の何ものでもなかったのだ。<空しさ>というのは、監禁され、出口なしの状態にありながら、いくら脱出を計っても無益だということである。近代建築の危機は、<疲労>や<消耗>の結果では決してない。それはむしろ建築が、イデオロギーレヴェルで有効に働きえなくなったということを意味するものなのだ。近代建築の<失墜>は、そのブルジョア的な両義性を否応なく露呈してきたことにその原因がある。すなわち近代建築は、絶えず、それ自体としての<積極的>な意思と、その情け容赦ない商品化という両極に引き裂かれてきたのだ。もはや近代建築にはいかなる<蘇生力>もない。それは、ついに何も語ることのない多重なイメージの迷宮をあてどなくさ迷うこともなく、また、幾何学の、おのが完璧さに自足した沈黙のなかに閉じこもることもない。かくして、建築だけに限った範囲で、その取るべき道を云々して見たところで、無益なのだ。社会構造がそもそも建築デザインの性格を条件付けるのであるからして、その中で取るべき道を主体的に探るということはあり得べくもないことなのだ。建築に向けられる批評は、そもそも建築それ自体に<具体化された>イデオロギーへの批評なのであって見れば、単なる建築の問題を超えて、ついには社会構造そのものの問題へと行き当たらざるを得ない。そこにいたって初めて-つまり、建築という単なる一分野でものを考えようとする発想が乗り越えられたときに-、資本主義の新しい発展形態を模索する上での、技術者の新しい役割、建築生産活動をオルガナイズするものの新しい役割、プランナーの新しい役割について考えることが有効になるし、さらに、建築のような技術的で知的な労働が階級闘争にかかわる上での、避け難い対立を体験することもありうるのである。資本主義の発展に絡むイデオロギーについての、様々な角度からの批評は、それゆえ、広く社会全般に関わるための第一歩なのである。そして今日、こうしたイデオロギー批評の主要な任務といえば、ばかげた、役立たずの神話-<デザインへの期待>という時代錯誤をいまだに許している神話-を根こそぎにすることにほかならない。(マンフレッド・タフーリ著『建築神話の崩壊』P209)

設計中の住宅

Dhouse2昨年の秋から設計している住宅の模型写真。ちょっと柱がひん曲がっていたり、あるべき柱がなかったりするのは、ご愛嬌。。。。事務所として利用されて来た平屋の建物を、二階建ての住宅へ改築する計画です。外観は、単純な家型。内部は、いくつかの異なるデザインの部屋を繋げる、という構成を考えている。完成したとき、それぞれの部屋を採った写真を並べたら、一つの家とは思えないような、異質なデザインが同居するものになると思う。設計図では、建物の全体像を一度に把握することができる。建築家はそれで、建築物の全体を把握して、一つの構築物にまとめあげようとする。一方、実物の建物では、そんな単純な全体は存在しない。外部と内部を同時に把握することはできないし、外観を見ること、食卓で食事を採ること、あるいは、リビングで寛ぐことと、廊下を歩くこと、それぞれは独立した経験である。そこで、そのようなリアル建物での断片的な経験を、一つ一つ読み取りながら、住宅のなかの場面場面を作って行き、それらの場面を繋ぎあわせることで、住宅を作りだしたいと思っている。当然、外部と同じくらい内部のデザインも重要なのだが、まだ見せられる材料がない。おいおい紹介していきたい。

主要50雑誌の「部数激減(秘)データ」

主要50雑誌の「部数激減(秘)データ」マスメディアの衰退を示す資料をネット上に見つけたので、リンクを貼っておきます。これからは、マスメディアが衰退し、さまざまな通信手段を使った実にメディアが乱立する状態になるのではないか。そして、いうまでもなく、マスメディアが作り出してきた「有名人」「スター」といった存在も消えていく。建築界においても、それは同じ。「新建築」や「GA」といった建築メディアが作り出してきた「スターアーキテクト」という枠がなくなっていく。公共建築やファッション性の高い建物に「スターアーキテクト」を起用することによって、「建築を芸術作品化」してきたが、「スターアーキテクト」という枠が消えるとき、建築はどのように作られていくのか?結局は、これまで建築家を「先生」と呼んで、その業務領域だけは建築家に任せていたゼネコンが、すべての業務領域を支配することになる可能性が高い。では、ミニメディアがつくる小さいコミュニティが新しい建築をつくるきっかけにならないのだろうか?小さなコミュニティが集められるお金は、コミュニティのサイズに比例するはずだ。であれば、小さなコミュニティの中で住宅クラスの建物やその建設プロセスを含む活動などを「芸術」として、認定できるような小さいメディアを作り出す試みが必要だといえる。

内井昭蔵展

(ツイッターで送った文章が、長くなったので校正して、こちらにまとめておきます。)内井昭蔵の思想と建築今週日曜日、世田谷美術館で開催中で、この日最終日だった内井昭蔵展を観た。内井昭蔵といえば、彼の「健康な建築」という思想を巡って、僕の二人の師匠、石山修武と伊東豊雄が、共に批判していたこともあり、これまで僕は批判対象の建築家という目でしか見てこなかったところがある。ただ、改めてこのような展覧会で、まとまった作品を見られたことで、70~80年代の建築について理解を深めることができたように思える。初期の建築で特にわかりやすいのだが、メタボリズム的なメガストラクチャーに、切り妻の屋根や装飾を付け加えている。鉄やコンクリートの他、アルミ等の近代的な材料も積極的に使いながら、切妻やボールドの屋根、細部に装飾を施して行く方法は、建築史的にポストモダンになるのかもしれないが、そんな紋切り型の分類より、これらの建築が、今時どこにでもありそうな、公共建築のプロトタイプに見える所が面白いと思った。公共建築の総本山ともいうべき「御所」を設計しているのは象徴的だと感じた。

AとBの起源-牛と家

現在の「A」はセム語の「アレフ」、つまり牛からきており、セム人はヒエログリフの「牛の頭」にあたる文字をあてました。同様に「B」は、「ベート」つまり「家」で、ヒエログリフの「家」に当たる文字をあてました。アルファベットはこの最初の二文字をを合わせた言葉です。これら原シナイ文字アルファベットは、フェニキア文字に発展し、ギリシャ文字やラテン文字、そして現在のアルファベットへと発展したのです。一方フェニキア文字はアラム文字となり、アラビア文字、インド、チベット、満州文字へと発展し、朝鮮のハングル文字にまでその影響が及んでいるということです。(吉島重朝著『印刷よもやま話』P8)

生活の基礎として「衣食住」といわれますが、食に関わる牛と住に関わる家は、アルファベットの最初の二文字、AとBの起源にもなっているらしい。

地方で聞いた耳より情報1

あけましておめでとうございます。だらだらと続けているこのサイトも、二回目の正月を迎えました。これからも、めげずにほどほどに続けていきますので、よろしくお願いします。さて、このお正月は、岐阜の実家に帰省して、友人や知人に会って、話を聞く機会があり、東京では決して聞くことができない話を聞けて面白かった。その中のひとつが、岐阜の家や土地の値段に関する情報。家や土地の価格といわれて、どれくらいを思い浮かべるでしょうか。建物で、坪単価50万円代なら、ローコスト。90万円代ならハイグレード。都心なら土地の価格で、坪単価100万円は超えるし、ちょっとしたマンションでも、5000万円を超える、というのが常識だと思う。以前、知人が都心に購入した億ションを見学に行った際、その狭さと日当たりなどの居住性の低さに唖然とした経験もある。そもそも、億ションが投資という目的に購入されるケースが多いので、そもそも実体的な居住性と、それに付けられる建物・土地の価格とが、かけ離れているのかもしれない。しかし、いずれにしても、価格に係わらず、人口が密集する都市で手に入れられる住居の面積や住環境には、物理的な限界がある。一方、田舎では都会では信じられないくらい、不動産を安く購入することができるらしい。 Read more »

チリに建設された住宅-伊東豊雄の[White O]

前回書いたチリの建築の話題に関連して、最近、伊東さんも、チリに住宅を実現させたことを書いておきます。White O

White O

White O

クライアントがどのような人物か知らないが、小規模な住宅のために日本からわざわざ建築家を招いていることだけ考えても、資金的に余裕のあるプロジェクトだと考えられる。いまチリには、わざわざ地球の反対側の日本から建築家を招いて住宅を設計させたいと考え、それを実現させるだけの資産をもったクライアントがいる。

チリ建国200年祭展示会

チリ建国200年祭展示会28日、早稲田大学理工学部で開催中のチリ建国200年祭展示会を見学し、『ラテンアメリカの建築の可能性』というタイトルのフォーラムを聴講。チリで活躍する二人の建築家クリスティアン・ボサ氏(サンセバスティアン大学)、アルベルト・タイディ氏(サンセバスティアン大学)、日本からは石山修武氏と難波和彦氏、それと石山修武氏の研究室で学び、今回の展示会を企画・製作したチリ出身の建築家アベル・エラソ氏によるそれぞれの作品のプレゼンテーションの後、会場からの質疑応答が行われた。 Read more »

一人あたりの世界粗鉄鋼生産量と建築作品

一人当たりの粗鉄鋼生産量と建築作品『atプラス01』の水野和夫「ケインズの予言と利子率革命」に引用されていた表「一人当たりの世界粗鉄鋼生産量」に主要な建築/展覧会(赤文字)と重ねて見た。建築運動と(粗鉄鋼生産量として現れている)政治/経済とが、連動していることがよくわかる。

スレートのはく離や亀裂、磯崎氏設計のほかの4施設でも

スレートのはく離や亀裂、磯崎氏設計のほかの4施設でも

静岡県は10月22日、静岡市内の舞台芸術公園にある屋内ホール「楕円堂」など4施設で、主に屋根材として使っていた天然スレートのはく離や亀裂が2008年に相次いで見つかっていたと発表した。ほかの3施設は、野外劇場「有度(うど)」と稽古場棟、研修交流宿泊棟。いずれも磯崎新アトリエが設計した。住友建設(会社名は当時)などが施工して、1997年6月に完成した。楕円堂の外観。舞台と客席が一体の楕円空間となっている(写真:静岡県)県は10月19日、JR東静岡駅前にある県の複合施設「グランシップ」で、外装材として用いた天然スレートの落下事故が最近5年間で計40件起きたことを明らかにしたばかり。グランシップも同アトリエが設計。98年8月に完成した。

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桃花村の農産物

桃花村農産物農事組合法人桃花村遅くなりましたが、先日のブレスパッセージで買った田中泯がなさっている桃花村で作ったトマトと番茶(極上)の写真です。価格は、それぞれ以下の通り。 Read more »

40年で未婚率10倍増!

「40年で未婚率10倍増!」から男のホンネを読み解けば…結婚しない人がすごい勢いで増えているらしい。40年で、10倍。10年で2倍だそうだ。周りの友達を見ていれば、その傾向は実感できる。むしろ、実感とこの統計とを比べると、「この程度か」と思うくらいだ。もっとも、自分の周りにいる友達に、同じような傾向の人たちが多い、ということがあるかもしれないのだが。このことを建築に延長させて考えて見れば、近代建築の独立住宅は、核家族のために作られてきたが、いよいよその前提が壊れていることが、あからさまに表面化し始めた、ということになる。今どきの建築家は、「デザイナーズ住宅」として独立住宅の設計を主な仕事としているところがある。しかし、世の中が急速に非婚化に向かっている以上、近代建築の延長で住宅を作りさえすればいいというわけがない。「婚活」という流行語もあるようだが、こういう統計をみてしまえば、「婚活」も、非婚化という大きな流れに対する、ささやかな抵抗でしかない。むしろ、消滅しつつある核家族にこだわるよりも、これまでの家族に代わる別の生活単位やコミュニティを積極的に考えていくほうが、余程前向きな姿勢ではないだろうか。そして、建築家も、それを受け入れるハードとしての「家」を考えていく必要があるだろう。

民主党の住宅政策2

「住宅政策を大転換する」、民主党・前田武志座長こちらでも民主党の住宅政策について、話題になっている。高速道路の無料化、脱ダム、リフォームなど、民主党がやろうとしていることを、一言で言えば、もう建築・道路などのインフラを新しくつくらない、ということだ。僕が、修行時代に担当した物件は、島根県の人口二万人程度の町の客席600席の多目的ホールと蔵書10万冊の図書館の複合施設で、1999年に開館した。坂倉準三が設計し、1951年に開館した神奈川県立美術館は、初めての県立美術館だったらしい。90年代の公共施設は、それまで整備が遅れていた地方に建設される場合が多く、それ以降、あまり公共施設が建設されなくなった。つまり、1951年に始まった、地方の公共施設整備が、半世紀を経て、日本全国に行き渡ったということになる。さらに、今は、少子化の時代だといわれている。人口が減れば、それまで整備された建築物の利用率は、減る傾向になる。こんな時代の状況を素直に見据えれば、新しく建築や道路をつくる必要はないだろう。相変わらず、建築や道路が必要としたのは、利用者ではなく、それらを作ってきた建設業者たちだ。需要は、簡単に減ったり増えたりできるが、それを供給する労働者は、簡単に減らすことはできない。だから、需要が減った時代でも、建設業界の労働者に支えられた与党の政治家たちは、彼らに予算を配分し、建設業界を養ってきたということではないだろうか。しかし、今回の政権交代で、そのしがらみもなくなった。むしろ、新しく政権をとった勢力からすれば、建設・土木業は、これまでの与党の政治家が抱えてきたしがらみの象徴として、格好の批判対象になる。民主党の政策は、 その結果として、作られたものといえる。もちろん、建築を設計してきた建築家の職能も、こんな世相の影響を受けせざるを得ない。

民主党の住宅政策

以下のサイトで、民主党の住宅政策が紹介されています。民主党大勝で住宅政策はどうなる民主党『次の内閣』閣議(中間報告) 民主党住宅ビジョン政権が変わることで、建築業界にも変化があるんだろう。これまでも、道路や公共建築の公共事業が、削減されてきたが、これからはその傾向が一層強くなるんじゃないでしょうか。今、話題になっているダム建設中止は、その一例。こうなると、これまで公共事業で儲けてきたゼネコンは、いよいよ力が弱まってくる。90年代初頭まで、ゼネコンは絶対的な存在に見えたが、以外ともろかった。その力の源は、政府の土木建築工事による社会民主主義的な政策だったが、最近の新自由主義の政策で公共事業を減らされると、簡単に力を失ってしまった。さらに、今回の民主党がいうように、公共事業の投資先が、土木工事から別の分野(たとえば、グリーンニューディール)へと移されれば、回復の見込みもなくなってしまう。ただし、建築業界にとって、悪いことばかりでもないように思える。民主党の掲げる住宅政策の通り、大規模な公共事業からリフォームなどの小規模な事業に建築業界の業務の比重移れば、これまで下請け業者だった、末端の職人たちに直接仕事が発注されるようになるかもしれない。リフォームは、一つ一つの仕事の規模が小さくて、大手のゼネコンなどの仕事にはなりずらいし、規格化・量産化でローコストで住宅を供給してきた住宅メーカーの守備範囲でもない。いまの建築業界は、ものづくりの現場にお金が届くまでの中間搾取が多すぎる。通常、大手の住宅メーカーは、粗利益25%以上も採ってしまうらしい。これでは、最終的な建築物をつくる材料や職人の手間に金を掛けられなくなるのは当たり前だ。これから、現場でものづくりにあたっている末端の職人にお金が廻るようになれば、多少建築の質も上がって来るんじゃないかと、思うのだが、どうだろうか。

ブランドショップのインテリアデザイン

最近、まとめて銀座や表参道の高級ブランドショップのインテリアデザインを見学してきた。基本的に、近代建築では、建築とインテリアデザインとを別のジャンルとして扱っている。そのため、建築家は、インテリアデザインを軽視する傾向があって、建築家の手がけるインテリアデザインは、ワンパターンになってしまうことが多い。ですが、人間の活動という視点から考えれば、エクステリアや構造などと同じく、インテリアも同じく大切なものであることには代わりはない。そこで、改めて、インテリアデザインを考え直してみたいと思っている。また、建築の設計では、得てして、予算的な制約からデザインの制約を受けることが多いが、高級服のブランドショップには、ブランドイメージを維持して、高級な商品の購買意欲を掻きたてるために、高級感を醸し出すデザイン施す必要があるはず。そのためには十分な予算もあてられていると思われる。十分な予算を使えば、普通は見ることのできないような、特殊な材料が使われていることもあるんじゃないか、そう期待した。 Read more »

建築に対する複数の視線:エクステリアとインテリア

sec-concept.jpg前々回のエントリーで紹介した岡崎さんの言葉にもあるとおり、居間の視点と風呂場の視点は違う。あるいは、外部と内部を同時に眺めることもできない。にもかからわらず、建築家は、図面や模型といったメディアを用いて、一挙に全体を把握できるような視点を設定して、そこから建築の全体性を捏造してしまう。そこで、現在、設計している住宅では、そのような捏造された建築の全体性によらず、愚直に実体の建築物に向けられる無数の視線を一つ一つ把握しながら、同居させたいと考えている。上は、その住宅の断面の概念図。 Read more »

統整的理念

ポストモダニストは、歴史のいっさいの理念を物語だといって否定した。つまり、理念は仮象だというわけです。しかし、それは別に新しい考えではない。そもそもカントは、理念は仮象だといっています。ただ、それは、感覚に由来するような仮象とはちがう。。それなら、理性によって訂正できる。ところが、理性から生じる、理性に固有の仮象がある。たとえば、昨日の自分と今日の自分は同じ自分だと人は思う。しかし、ヒュームがいったように、同一の「自己」など仮象に過ぎない。ところが、もしそのような幻想を持てないとどうなるか。統合失調症になるでしょう。だから、この種の仮象は不可欠であり、また不可避である。カントはこのような仮象をとくに「超越論的仮象」と呼びました。理念も超越論的仮象です。共産主義という理念も同じです。超越論的仮象(統整的理念)がなくなればどうなるか。いわば、歴史的に統合失調症になる。先進国のインテリは、理念を物語(仮象)だといってシニカルに笑っているが、それではすまない。すぐに別の理念(仮象)をでっちあげることになる。フランシス・フクヤマみたいに、歴史はアメリカの勝利によって、自由民主主義が実現されて終わったというような、乱暴なヘーゲル主義的な観念論が出てくる。他方で、露骨に宗教的な原理主義が出てくる。理念を必要とする時代は全然終わっていないのです。理念は終わったと冷笑するインテリは、やがて冷笑されるか、忘却される。(柄谷行人著『柄谷行人政治を語る』p69-70)

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住宅設計で考えること

建築とは生活である。生活と一言に書いたが、それを構成しているのは多層化された質である。そこに住んでいるのは人間だけではない、犬も猫も、何種類もの植物、生物が棲んでいる。そして人間となると、同じ一人で複数の異なった生物のように、そのつど、姿形、行動を変える。今西生態学にすみわけという概念があるが、異なる生物はそれぞれ異なる質の領域を必要とし、それらはお互いに決して交じり合わないことを要求する。自然は無数で雑多だが、それぞれは頑ななまでに潔癖で完結した世界(人がプライバシーを要求するように)要求するのである。たぶん建築を設計するということは、この無数の世界のそれぞれの自律性を保ちつつ、いかに多元的に重ねあわすことが出来るか、ということに尽きるだろう。その多元性が建築が含む無数の質(たとえば壁や床のザラつきも)を決定する。こうして出来上がった建築を記述する唯一の視点は存在し得ない。居間での視点、風呂での視点が違うのはもちろんだが、そこには犬の視点、花の視点(etc)など無数の視点、無数の世界がそれぞれの自律性が保たれたまま含まれていなければならない。(岡崎乾二郎「建築の質、自然の質」『住宅特集2005/01』p103)

今、住宅を設計しながら、頭の中にあるのは、岡崎乾二郎さんの上記の言葉だ。多くの建築家は、構造の整合性、立方体、美しい幾何学で構成される平面図、などというように、建築に向ける視線を、設計図や模型をつくる職業的な視線に限定してしまっている。仕上げで覆ってしまえば、整合性のある美しい構造も見ることは出来ない。また、人の身長からは建物の全体を一挙に把握することも難しい。にもかかわらず、美しい構造体や、立方体のボリューム、美しい幾何学で構成される平面図のパターンにこだわるのは、建築家が設計図や模型を介して建築を眺めているからである。そして、その職業的な視線から、他の視線をすべて捨象して、建築としてまとめてしまっている。 Read more »

建築デザイン情報のポータルサイト

architecturephoto.net上記リンク先のサイトでは、リンク先を紹介するという方法で、ネット上の建築やデザインに関する情報をリアルタイムで紹介してくれている。たとえば、建築家自身が運営するHPで、最新作や工事中の写真がアップされたことなど、購読者や情報をアップした建築家自身からの情報提供がない限り、発見することが難しいような情報まで出てくる。僕も、すこし前にこのサイトを発見して、購読しているのですが、かなり重宝している。これさえ観ておけば、建築デザインの流行は、大抵抑えておくことは出来るのではないだろうか。ネット上には、膨大な量の有益な情報が公開されているはずだが、広大な大海原のなかでは、有益な情報を必要なときにみつけることが難しいものである。その対策として開発された技術である検索エンジンは、確かに便利ではあるが、やはりキーワードだけで発見できる情報には、限界がある。しかし、こうやって、ネット上の情報をうまく集めさえすれば、雑誌程度のコンテンツを十分に提供することができるわけである。ただし、このサイトがかなりの頻度で更新されているのをみると、運営にはかなりの労力が必要なのかもしれない。